|
|
|
|
港から坂道を少し登って駐在所の前を過ぎると右手に古
い五輪塔の墓がある。450年前から島に住む合田一族
の先祖 合田 嶋之輔の墓である。嶋之輔の嫡男助十郎
は豊浜 大平国祐の娘家老として豊浜に渡り、秀吉の九
州成敗で戸次川の戦いで多くの讃岐の武将と共に戦死
したが、その子孫は庄屋を拝命し、豊浜で繁栄してい
る。墓のある付近を城の内(じょうのうち)と言い、合田館
があった所です。
|
|
|
|
|
|
港から広いコンクリートの道を登りつめ、小学校の前の
大鳥居をくぐると八幡さんの境内に入る.島の氏神で春
の百手祭り、夏の神楽、秋の大祭と江戸時代より連綿
と伝統行事が受け継がれている。
創建は1124年で古い。明治14年に再建された大鳥
居、尾道の石工の手になる狛犬、本殿前の大坂で作ら
れた狛犬本殿には、木製の狛犬もある。三好義兼奉納
の鏡は大切に保存されている。秋祭りには、江戸時代、
大坂より購入されたちょうさ(太鼓台)3台が御神輿の後
を港まで 往復お供する。島の道は狭い所が多いが、ち
ょうさの通る道は、江戸時代より造られた広い道です。
昔は祭りの前日、道造りと言って若い衆によって掃き清
められたと聞いてます。
|
|
|
|
|
|
八幡神社から東に行くと、島で一番大きい平井の井戸
がある。江戸時代、島民は干ばつに苦しみ、丸亀藩の
援助で出来た、ため池で指揮した役人の名をとって感謝
の意を込めヒラヤのイズミと言っている。
そこから、中学校に行く坂道の途中に資料館がある。
元は幼稚園だったが、坂の上に新しい保育所が出来た
ため空き家になった園舎を展示室に使用している平成4
年久保先生を中心に島民の協力のもと設立された手造
りの資料館です。昔の漁具、民具、文書等貴重なもの
がたくさんある。入館無料。観音寺市役所伊吹支所が
管理しているので予約の電話をして下さい。電話0875-
29-2111 島を訪れた 言語学の金田一春彦先生の色
紙もあります。
|
|
|
|
|
|
資料館から北の方向に少し歩けば、天神さんの社のす
ぐ横に真言宗大覚寺派七宝山泉蔵院がある。観音寺の
7坊の一つ泉蔵坊が始り(1124年開山)歴史は古い。
何回か火災に遭い、古文書類が紛失しているのは、残
念。境内には、古い墓が多くある。島は以前土葬であっ
た。土葬した墓から、洗骨した骨を境内の墓に入れ、拝
み墓としている。境内の墓には、埋め墓はない。島の人
は信仰厚く、新盆には、全国各地よりお墓参り(マツをタ
ク)にたくさんの人が帰省する。
写真中央の白い塀の建物が泉蔵院。
|
|
|
|
|
|
お寺から六地蔵(ロクドサン)を通って北浦の丘にある
産院跡に向かう。伊吹島では、出産は、各家の納戸等
でおこない、その日の内、もしくは翌日、出部屋に入る。
そして、30日間母子だけの別火の生活をする。赤不浄
で家の中が穢れると言う古代からの日本の風習で昭和
45年頃まで使用された建物跡である。男子禁制で女性
だけが入室を許された。月経の女性も泊りに行ってい
た。穢れるということでなぜ、女性だけが、別火の生活を
しなければいけないのと、現代の女性から反発がくるか
もしれないが、母子の健康を考える上での昔の人の知
恵かもしれない。北浦の港を見下ろせる眺めの良い静
かな環境が残っている。民俗学的にも貴重な建物だっ
たが、県道工事のため昭和58年に解体された。復元が
望まれる。伊吹島今昔 第7話・再発見A Bで詳しく取
上げています。
|
|
|
|
|
|
出部屋から急な坂道を登った高
台が天正の昔、伊吹島に縁あっ
て、住み着くようになった三好 義
兼 義茂兄弟の三好館のあった所
です。土佐の長曽我部が讃岐に
侵攻してきた時、平和であった島
も戦場となり、義兼は追い詰めら
れ、鉄砲石の高台で自刃します。
その後、生駒の殿様から政所の
お墨付きを孫の義浄(よしきよ)が
いただき、伊吹島を治めた。後背
地に畑を持ち篭城しても大丈夫な
場所である。寺屋敷と言う地名が
示す通り館の前に寺があった。高
岸と言う地名は江戸時代島の役
所があったところです。このあたり
からの眺望は良く、伊予の宇摩,、
新居の二郡の動きは手にとるよう
にわかる。信長に若江の城(東大
坂市)を攻められ切腹した義継の
遺児 義茂を伊吹島に配した十河
存保の意図が読み取れる。義兼
の墓は嫡男の作衛門屋敷にまつ
られている。三好一族と共に来た
篠原、川端一族も島で栄えてい
る。写真は泉蔵院から見た作衛
門屋敷一帯です。島の北西の高
台にあります。出部屋も赤文字で
入れてみました。島では高い所を
空(そら)と言っている。この表現
は徳島県と同じです。
|
|
|
|
|
|
三好義兼の館のすぐ近くにある。まだよくわかってない
海蔵寺跡に地蔵堂と大日堂がある。島の人はおこじと
呼んでいる。文化5年(1808年)の太鼓台の記録の残
る、上所(かみじょ)のちょうさを保管している太鼓蔵があ
る。その横が荒神さんで夏には、夜神楽がある。おこじ
とはお荒神さんからの名からついたのではないかと思い
ます。飲み水にも苦労した江戸時代、おこじにも井戸が
掘られました。今は、コンクリートで覆われています。
おこじは島の遍路の歴史がわかる所で、宝暦年間、四
国八十八ヶ所を24回も回った島の人の墓が太鼓蔵の
横にあります。江戸時代より泉蔵院から島の周囲を回る
島四国の終点がおこじでした。春の島四国には、島外
からもたくさんの人がお参りに来てます。島四国を整備
した、仁兵の卯三蔵の墓もあります。おこじを最後に伊
吹島の歴史散歩を終わります。おこじの下のちょうさの
通る広い道を下って行けば、真浦の港へ着きます。 伊
吹島再発見 第9話に娘遍路の話入れました。
|
|
|