伊吹島の昔の暮らしについて書いてある亡くなった父(大正14年生)の文章です。


伊吹島 今昔 三好 秋光

第1話 縛り網 (鯛 網)
縛り網も今では瀬戸内海から完全に姿を消してしまいました。ただ、対岸の福山市 鞆の浦で観光用
として面影を残すのみです。昭和二十四、二十五年頃まで、伊吹島には、多い時には、十統以上もの
縛り網があり、浜は、大漁で賑わったものです。八十八夜を境にして魚島という漁期に入り、銀鱗踊る
鯛や鰆、沖三里には、勇壮な縛り網の船団が群れていました。忘れ去られる縛り網の当時の様子を
記しておくのも、意味あることです。
伊吹では、この縛り網の網元を『村君』とも呼びました。村君(むらぎみ)とは、漁業の長(おさ)のこと
です。縛り網は一人の網元のもとに五十人から、七十人もの漁夫と大小十隻前後の船数を必要とす
る大規模な漁業でした。真網(まあみ)、逆網(さかあみ)の網船が、二隻、大手船一隻、かずら船二
隻、碇船、生船(いけふね)運搬船、先ごぎ等がありました。大手船は四丁櫓で五人乗り、これには、
沖合(おきあい 漁労長)が乗って指揮をとっていました。沖合は、網元本人もあり、別に優秀な沖合を
雇っている網もありました。かずら船は、二隻で各五人で十人です。乗組は、沖合でもできる年季のは
いった者ばかりで、かずら縄の操作から網船二隻が、網を縛り終わるとき、かずら船の碇で網船を固
定する大事な役目をもった船です。かずらとは、長さ七十五尋もの細縄にブリ(振木)という槙の木で
造った横巾三センチ、長さ二十センチの経木の端に穴をあけ道糸で元綱に何千個という数を結びつけ
てあるものです。
は、底魚で海の砂泥に棲んでいます。魚島になると産卵の為に瀬戸内海の磯とか瀬に集まってき
ます。その鯛を見つけて何千メートルというかずら縄で取り巻き、真ん中に寄せ集め、それを網船が網
で縛るように投網する漁法が、縛り網です。生活の知恵というか、熟練というか素晴らしい漁法です。
網船の乗組は、真網、逆網共二十人で四十人。その職階制は厳しく、船頭、トモオシ、ドウロオシ、イ
ワオキ、カイロオシ、カシキ等に分かれていました。年季の入った者、腕節の強い者、新米と持ち場が
違っており、魚島道中、夜、船で寝るにも場所が決まっていました。網船の艫(とも)に櫓があり親方の
身内にあたる古参の漁夫が見送りといって、ここに陣どって一般漁夫を指示していました。イケ船も四
人乗りで、縛り網に最も経験の深い古老が乗り組み、しほ立てとか、針師が乗っていました。針師は、
鯛の浮き袋に針を刺し狭い魚櫓(いけま)に何段にも魚を泳がす特殊技術の持主で何十年もの経験を
積んだ者が、なりました。ナマ船は鮮魚運搬船でそのかたわら、一週間に一回仕込み日があって、網
元から、食料、燃料、味噌、醤油、米、酒、その他を陸地から運んで来ていました。よほどの事が、な
いと漁期中は、船所帯で陸(おか)にあがって寝るということが、なかったものです。
これだけの船と人員を確保するため、親方は、大変でした。前の年の十一月頃から網子(あご)を募り
前金を渡して契約、正月の十一日には、その網子を皆集めて、『タマタテ祝い』をし、大玉さんを奉り、
酒、魚でご馳走しました。その時、漁夫の職階、役付など、決めたものです。網下ろしは、八十八夜の
前後でした。満艦色に幟、フラフ(大漁旗)を押し立て「エーホ」「エーホ」「ユーデホ」と掛声を合わし
『恵比寿櫓』を廻り、胴ダルを叩いて勇ましく出漁して行きました。一統、二統、三統と霞たなびく春の
海に、次々漁場に向かう姿は、絵巻物の様で、それは、見ものでした。機械船が出来て、先曳が、網
船を曵き出したのは、昭和十年頃のことと言います。
波静かな、燧灘は鯛、鰆に鯵、鯖、あらゆる魚の産卵場です。産卵に来る鯛を入り込み鯛と言いま
す。その鯛を追ってあの瀬戸この磯と、長い春の日、真黒に日焼けしての海上生活。島寄り(伊吹島
に帰港すること)というのは、めったにありません。雨が降っても風が吹いても船所帯。苫をかぶって寝
たものです。鯛の漁期がすみ、鰆の漁期に移るのが旧の五月の節句です。鰆に移ると二番積みとい
って網子の契約も切れ、自由になりました。戦時中は、若者は兵隊に狩り出され、その後に、島のうら
若い娘連中が年寄りに混じって、縛り網に乗り組みました。
縛り網は、長い伝統のあるこの島の漁法でしたが、近代化の波に乗り、すべてが、省力化、大勢の
漁夫を雇う漁業は採算がとれず、魚族の減少とともにこの海から消えていきました。「ヨイヤショノ、ヤ
レヨイヤショノ。」と長い春の日を真黒になって働く漁夫達の姿が今でも瞼から消えません。一網に何
千匹という鯛が、かかり、魚取り(こし)が鯛で吹き上がり、その上に筵(むしろ)を敷いて踊ったという
話。一網に千両もの漁があり、赤褌、赤鉢巻きで、幟を立て、千両箱を家まで担ぎあげたという話もあ
る。勇壮で、しかも、物悲しい網声も今は、もう聞こえない。変遷していく瀬戸内海の漁業に明るい将
来はもう期待出来ないのであろうか。



第2話 伊吹島の魚 鯛
と言えば、春の魚島縛り網の鯛を思い出す。伊吹島は今は鰯が主役ですが、昔は鯛、鰆が天下
をとっていたものでしょう。鯛にはいろいろの種類があるが、島の周辺に棲むまたは、泳いでくる鯛は
マダイ、チダイが主でしょう。冬を深海の底で過ごし春になると、沿岸の浅瀬へと移動を始める。いわゆ
る産卵にやって来るのです。昔からこの瀬戸内海は、潮の流れもゆるく、魚にとっては、格好の産卵場
でもあるのでしょう。この内海に産卵に来る鯛をのぼり鯛または、入り込み鯛と呼び例年五月二日頃、
八十八夜からの魚島の時期です。魚島に桜鯛。昔の人は、優雅な名前をつけたものです。その姿、そ
の色彩、ピンと張った背びれ尾ひれ、悠々と泳ぐその態度、邪悪を寄せつけない澄み切ったまんまる
い眼、何という語感。めでたい名前であろう。見てよし、食して良し、良いことずくめの魚、鯛こそ魚の
王者でありましょう。
鱗を落として三枚におろすと捨てる部分がほとんどなくなる。刺身は文句なくうまい。身は固過ぎず、
柔らか過ぎず、味もくせがなく、日本人の味覚にあった魚である。残ったアラは、ブツ切りにしてアラ煮
にするか、目玉を入れて塩あじで潮煮、うしお汁にしても、乙なものです。煮付けもうまい、塩焼きは殊
更にうまい。鯛の浜焼きというのが瀬戸内海沿岸での土産品の一つです。これは、昔の塩田と関係が
あり、そこから出来たものです。鯛の鱗をとり、腹わたを抜いて塩を腹の中に詰め込む。魚体に塩をま
ぶして炭火で焼きあげる。塩が身にしみこんで焼きあがりは何とも言えぬ風味がある。生(なま)を杉
の葉でくるみ折笠に包んで、わら縄でしばった姿は郷愁をそそる。
『川背 海腹』という言葉があります。川魚は背中の方がうまい。海の魚は腹の部分がおいしいと言う
ことです。海底に棲むどの魚でも食してうまいところは砂ずりというところです。砂ずりというのは、魚の
腹部の下で、常に底の砂泥と接触するところで鯛の場合は白くなっており、総体のピンク色とはっきり
区別がつきます。
『鶏口となるも牛尾となるなかれ』という諺がありますが、この島では、『鯛の尾より鰯の頭』という言
いまわしがあります。これは大きいものの後に従うより、小さいものの頭になる方がいいと言うたとえ
です。
天然ものの鯛もだんだん少なくなって現在は養殖が盛んになって来ているが、味はともかく養殖もの
は天然ものより体の色が黒ずんでいるのが欠点です。鯛は成長が遅く成魚になるには、約七年もの
歳月がかかります。目の下一尺という大物は六年から七年にもなる年寄りです。マダイは一メートルを
越えるのに、チダイは四十センチが最長です。チダイは花鯛とも呼ばれお頭付きに最適の鯛です。結
婚式のお膳についている鯛はほとんどが、「レンコ鯛」と呼ばれる鯛です。東支那海でのトロール船に
よって水揚げされているものです。何にしても鯛はおめでたい魚です。



第3話 伊吹島の魚 鰯
私達、島の住民に一番なじみの深い魚が鰯です。いわしには、鰮、鰯、小鰯(ひしこ)の三種類があり
鰮はうるめ、まいわしの類をいいます。燧灘にはたまに回遊して来るくらいです。昔は朝鮮海域に出漁
して鯵、鯖と共に大々的に獲ったもので大きな加工場をもって魚油を搾ったり塩蔵にして内地に土産
に持って帰ったものです。一時は島の経済を潤した鰮です。今でもこの種類を朝鮮いわしと呼ぶものも
あります。小鰯(ひしこ)は鱗の硬い、いわしの類ですが、これもほんの少し顔を見る程度です。
鰯というのは主として片口いわしといわれる類です。頭半分即ち片方が口だといわれる程度大きい口
の持ち主です。煎子(いりこ)というのは、煮て乾燥したもの、即ち煮干いわしのことです。人がこの島
に住み始めてから何百年、この鰯との付き合いは切っても切れない深いもので、住民の生活の支えに
なってきた、かけがえのない資源です。漁法も地曵網、焚き寄せ、揚繰網(巾着)、現在のバッチ網
至るまで、その変遷は島の歴史そのものです。
島は青葉若葉に萌え、アカシアの白い花が咲きこぼれる八十八夜、この前後に腹に卵を持った片口
いわしの群れが回遊してきます。これを入り込みいわしといっています。暑い夏の盛漁期も終え大漁を
祝う秋祭りも賑やかにすみ、木枯らしが吹き、海に白波が立ち絣(かすり)模様になる頃何時の間にや
ら姿が見えなくなります。この帰るいわしを、もげのいわしと呼んでいます。現在では、この海に来るの
は、一年中で三ケ月か四ケ月位でしょう。
片口いわしには、銀白色の鱗のある少し平たい感じの「まいり」と鱗の少ない背中の黒い「せぐろ」
大別出来ます。魚島に入り回遊してくるいわしは、大羽で雌の殆どが、腹に子を持っています。いわし
は、年に三回も産卵期をもっていると言われますが、主な産卵期は梅雨前後です。この時期になると
海に赤いじゅうたん、紅の帯を流したように漂ううわしの卵をよく見かけます。昔からのたとえでいわし
の卵は、八万八子だといいます。一匹のいわしから何万という卵を産みますが、自然淘汰により卵か
ら成魚になるのは、一匹から十匹になるでしょう。皆が皆育ってしまったら狭い燧灘は、いわしに占領
され海はいわしの上を歩くようになるかもしれない。しかし、自然の摂理は、よくしたもので、いまだに、
いわしの上を歩いたためしがありません。
どの魚にも持って生まれた本能、性質があります。共通の性質は、潮流に逆らって泳ぐ、光に向かっ
て進む、光に寄る。群集して共同の自衛活動をする等々、小さい弱い魚種ほどこの群集性が強いよう
な気がします。いわしには特にこの性質が顕著です。盛漁期のいわし群れ、どの位いわしが居るもの
やらと網を入れると、驚く程の魚群に出くわすことがあります。水温にものすごく敏感で大漁、大漁が
連日続いて喜んでいると明日の海には、何処を探しても一匹も見えない時がたまにあります。何処へ
消えたのかと古老も首をかしげる位です。たぶん、適温を探して海底下何メートルのヘドロの中にもぐ
ってしまうのでしょう。この燧灘は陸棚(おかだな)を離れると浅いところで十メートルから十五メートル、
深い所では、二十メートルものヘドロがあります。海は広大無辺、あらゆる魚の棲家です。このヘドロ
の中こそ外敵から冬期の冷たい水温から、身を守る天然のベッドでしょう。
煮干しいわしの種類をその稚魚から成魚に至るまでの過程で大別すると約十種類に分けることが、
できます。加工品の取引には、この呼び名が目安になっています。
@ ちりめん (ドロメとも言う シラス 生まれて間もない稚魚 六月中旬から獲れる)
A ちりめんかえり (体長三センチ 目がはっきりしてくる)
B かえり (四、五センチ)
C かえり小羽 (人間で言えば保育所、幼稚園の児童 七月初め)
D 小羽 (小学生 八月初め)
E 中小羽 (中学、高校生 八月中旬)
F上羽 (成魚 姿、形共に美しく一番おいしく全国何処へでも向く羽筋)
G 中羽 煙草のピース大 (吸口なし)
H 中あら 壮年期 卵を産むようになる 煮だしに最適 九月
I 大羽 体長十から十二センチ 十月から五月まで
煮干しいわしの最高品は鮮度がよくて、湯がよく通り、よく乾燥の出来て、塩加減が良いものが一番
です。素干しにしても同じで鮮度一番、乾し一番です。目刺しは青光に光って肌にちりめんじわの出来
たものが鮮度が良くて、高級品です。
伊吹島の煮干しいわしの市場での評価は、高いものがあります。これには、地の利、漁場が近く、
度の良いいわしを加工できること、先人達の加工の失敗、労苦から学んだ技術の伝承、さらにより良
い製品にしようとする熱意、積極的な技術革新品質意識の高さなどがあげられる。



第4話 打瀬網(うたせあみ)
打瀬網は、現在の小型機船底曵網の前進で、慶応年間初めて伊吹島に入れられたものと伝えられ
ています。「本漁を開拓せし先駆者は、浜屋こと川端与衛門氏なり、時あたかも慶応初年(1865年)
に於て広島県能地村の人の本漁を行使するを見て始めて業を起こせり言々」(伊吹打瀬組合役員名
録 昭和13年)とあります。明治20年には、打瀬組合を組織し、やがて伊吹漁業会の中核をなすよう
になりました。大正の初期から昭和の初め頃が一番盛大で島の代表的漁業でした。
エビジャコが主体で鱧、穴子、鰈、鯒、車エビがイロもの、鯛、チヌ、スズキ等がアタリものでした。真
帆、片帆の和船から、愛知県造りといわれる打瀬船まで、多い時はその数70隻近く、真浦の港、大
浦の港は、打瀬船の帆柱が林立して賑やかな景観でした。すべてが、帆船で風力で漁場まで航走し
なければなりません。船体の側面から風を受け梶を頼りに、おもかじ、とりかじ、ジグザグのコースを波
を切って突き進むいわゆる『まぎる』ということをしなければ、目的地に着けません。帆と梶の操作、当
時の打瀬の船頭さんの操船技術は見事なものでした。
漁場に着くと、船を横にして風力を帆に受け、長いやりだしを出し網を入れる。ほとんどが、夜の操業
で日没から夜明けまで、角ランプの明かりを頼りに風波にがぶられての稼業は、並大抵の苦労では、
なかったと言います。打瀬の名もこの辺から来ているのでしょう。
春、夏、秋はエビジャコを本命にした『しら網』、冬は『貝漕ぎ』という漁法に変わりました。旧暦の8
月、島の秋祭りがすむと、ほとんどの打瀬は下行き(しもいき)に行きました。八島灘、周防灘、豊前の
海に定期のように出漁したものです。八島打瀬は室津、上の関を根じろに周防灘は宇部の新川、豊
前は長洲の町がその寄港地であって伊吹打瀬の名を挙げたものです。
お半田の共同洗場で帆の潮出し、カッシャゲ釜、おこじや宮の広庭での赤いカッチ染めの網干し、綱
を打つギッチョの音も今はもう聞かれない。船たでがすんで、どの船もこしらえた子供の頭ほどのボタ
餅の味も今は昔。
西風のピュピュ吹く夕暮れの港、一斉にまぎり出す打瀬船の姿はスリルと勇壮そのものでした。戦争
のような朝市、エビジャコの山、青い燧灘に、豊前の海に白い帆を満々と張って走りまわる姿は、想出
のみで再び見ることもないでしょう。
茜さす豊前の海に帆を染めて 島の打瀬は今日も群れ行く




第5話 貝漕(かいこぎ)
昼夜ぶっ続けの風と波と寒さとの闘い。風の種もあればあるもの、西の空模様はまだ険しい。吹いて
は休みまた吹きすさぶ南西の強風、伊吹島では『かつれまじ』という。寒気凛烈というのか、空気が澄
んで寒さが骨の髄までしみこむ感じがする。無理もない柱暦の紙の数が残り少なく旧正月も真近の大
寒なのだ。
四阪のバンダの磯から江ノ島の吉田の磯にかけてガネ(わたりがに)の豊漁、伊吹の貝漕のほとん
どがここに群がっている。漁をしている船、港に向けて獲物を売りに走っている船、打瀬船の展示会の
ようである。真白い帆、継ぎはぎの帆、上がっては(風上に)やり、まぎってはやり、もっぱら海戦のよ
うである。約30隻は数えられる。
打瀬漁というものは、時候の良い春、夏のエビ漁だけではない。厳しい過酷な貝漕漁というのが、冬
の漁法であった。6帖掛は桁17丁、7帖掛は桁20丁。6帖掛、7帖掛とは、エビ網を引っ張る数のこと
で打瀬船の大きさの目安である。桁とは、1尺に5尺角の樫の木で作った枠桁に御影石の重石が両
方につき、その前方1列に7寸もの鉄の爪が30本近くもついている。うしろには、股引状の網がつい
ている。双網に藁縄の主綱がついている。かなりの目方があり、大人2人が両方持ってフラフラいう。
船を真横にして風力に合わせて帆を加減する。波の高いほど、風の強いほど、網の勾配に気を遣い、
その技術如何で漁が左右される。一日中、また夜通し風波にがぶられての貝漕は、海地獄のように
思えたもので、船酔も最初は黄水を、吐くものがなくなると血まで吐くようになる。手の皮が厚く足の裏
のようになって初めて一人前の打瀬乗りになり切ると言う。ゴム長靴のまだ無い時代は、素足にわら
じを履き釜の湯をかけながら働いたと言う。
1時間2時間おきに乗り組は20丁もの桁をあげ替えねばならない。漁獲物を甲板に移す。空桁を海
に放り込む。魚の選別から整理、カニ等1匹1匹足の指を藁しべでくくらねばならない。帆の上げ下げ、
主綱の加減、狭い船上では、かなりの機敏性が重要視される。寒さも眠さもつらさもあったものではな
い。誰が考えたのか、自然の知恵で海底にもぐっている魚族を、この桁網で掘り起す。しかも風と波の
力を利用して船をがぶらせながら。
伊吹を出て、はや、4日。2日目は尾道の市場、その夜折り返して出漁、今日は玉島行きだ。荒海売
りで相場もよかろう。幸先がよいのか、船玉さんがチーチーと勇む。乗組は、胴の間に入り仮眠する者
あり、雑魚を選る者あり、デビラを藁に通す者あり。火屋間(ひやま 賄室)から流れてくる穴子か何か
の醤油飯の香ばしい匂いに空き腹をかきたてられる。あかぎれとへどろで赤黒くなった自分の手足を
見て涙が出たりもする。火縄を手に一服つけている船頭のだみ声が「今夜は玉島どまり、風呂でも入
ってゆっくり休もう。」と頭の上から聞こえてくる。風は、やっぱり強い。
昔の貝漕乗りの思いをしたら「こんなこと、なめそじゃ。」と年寄りは言う。海の男の試練というか、
の苦労と貝漕の体験を経ずには一人前の口が叩けなかったと言う。漁師一代けわしい稼業であっ
た貝漕も、春が来て、桃の花が咲き、百手祭りの米寄せが近づく頃には、網揚げであった。
−昭和初期の貝漕の飯炊時代の想出−




第6話 秋祭り
ドンドン ドン ドンドン ドン。秋冷の朝のしじまを破り鎮守の森から単調だが腹の底に沁みこむような
太鼓の音が聞こえてくる。
祭りの朝は太鼓の響きと家々の神棚を清める潮汲みから始る。潮汲みは子供の役目。真浦の浜ま
でショウケ(柄のついた竹筒)を持って潮を汲みに行く。
私達の子供の頃、秋祭りは朝鮮行きやら打瀬の下行きに合わせて、旧暦の8月14日15日でした。
楽しみの秋祭り 銀飯に豆腐汁 鮨 かきまぜ 焼魚 刺身 野菜の煮付けが座敷の真中の食卓一杯に並
んでいる。腹一杯食べ 早々に宮の境内に走り込む。
常小屋の前には、地方(じかた)から来たいろいろの物売りが天幕を張って並んでいる。おもちゃあり
アイスクリームあり飴湯がある。くじ引き 綿菓子屋 のぞきからくりがある。
祭りの第1日は宮入りと言う。3支部の太鼓台が広庭に勢揃いして担き競べをする。何処が時間が長
いとか力が弱いとか、賑やかなことこの上ない。「シャン シャン シャン 仕舞うてシャン シャン」支部長
のおっさん達が丸く輪になって拍子木を打つ。皆揃って3社詣り。(八幡さん、荒神さん、天神さん)支
部長の白装束に黒の角帯、首に下げた拍子木と腰に吊った数珠袋が印象に残っている。夜は提灯が
吊られ賑やかに飾った 御花 の吊旗が切りたての竹の葉に映えて美しい。常小屋では、芝居、映画
が行われ大入り満員。酒の匂いと太鼓の響きと人々の喧騒で祭りの一日は暮れる。
今から思うと昔の人は敬神の念も厚く目上の人を大事にしてその訓をよく聞きました。昔からの宿
連中組織もさることながら八幡神社の氏子を基盤とする若衆組織(支部組織)が制度化されて今
に続いています。男の子は17才になった年に若衆入りが認められ名実共に一人前とみなされます。
ごぼう洗いから幹事 幹事長 理事 と年令的に段階がありその上に支部長が位置し、長幼の序列がは
っきりし上の者は下の者を監督し面倒を良く見、相互扶助、切磋琢磨の美風を生みました。その為に
青年層が中心となり島の発展の原動力となって来たものと思います。島に祭りがある限りこの支部青
年組織はいつまでも残しておきたいものです。
2日目は本祭りです。朝の10時頃、本殿で祭事をすませた御神輿の行列が拝殿を後にして賑やかに
真浦の浜へ降りて行く。お供の役割は各支部の当番制でした。先頭はナギナタ持ちの子供が二人、
一丁も先に刃を交差して道を警護する。二人の奴姿の鋏み箱が行く。先払いは金棒を持った子供が
二人、台笠、笠立、大鳥毛、小鳥毛、鉄砲に矛が、二組宛、天狗、獅子頭が狩衣姿で練って行く。御
神輿はゆっくりしかも粛然と進む。
「ホーサンじゃ ホーサンじゃ」御神輿を担ぐ者は10名当番支部の42才の厄年の者が選ばれる。白
い水干衣装に立烏帽子が金銀の神輿の金具に映えて美しい。鳥居から浜に至る沿道には島民の老
いも若きも黒だかり。パチパチと柏手の音と共にパラパラと賽銭が降って来る。御神輿の後から3支部
太鼓台が続く、宮入りの日はそうでもないが、2日目ともなると若衆の衣装も太鼓襦袢以外に燃え
るような柄の長襦袢を着て、薄化粧をしている。
昔の人は力も強く3支部相互の対抗意識も強かった。浜までの上り下がりの坂道を何屯もある太鼓
台を投げたら支部の恥だと全部肩で担ぎ、おまけに差上げたりして競争したものです。声の良いもの
伊勢音頭を唄ったりして力の余裕を見せました。「チョウサじゃ チョウサじゃ」 ドンドンドン 太鼓の響
き、歓声、島中が祭り一色で壮観で賑やかなものです。
御神輿は明神さんのお旅所に到着。神事が終わると満艦飾に飾られた巾着網の和船に乗せられる。
行列のお供全員、区長さん、組合長はじめ島中の偉い有志のおっさん達が羽織紋付で乗り込む。出
稼ぎから戻った人、地方(じかた)のお客さん、娘、子供から乗れるだけの人を乗せて港を出る。まだ
珍しい発動機つきの船に先曵きされて海上渡御時間余りで、股、円上島に本島と3島を廻る。あと
に、これも旗を立てた供船が5,6隻波をけってついて来る。今も昔も変わりはない。
御座船の和船は2隻に舫っているのでかなり広い。御神輿を中心にしてこの時ばかりは神も人も
礼講、3島巡りの1時間余りは、船中呑めや唄えのさんざめき。御神酒がかなりまわる。当番の若衆
が用意した墨汁で神輿の担手からナギナタ、鋏み箱、供廻り全員の顔にひげが塗りたくられる。海は
静かだが船上は大はしゃぎ。
再び船はお旅所に着き上陸、賑やかな御神輿の遷幸となる。鋏み箱のおっさんは船から上がると
道々、杓で御神酒を貰い酔うてフラフラ、奴襦袢も片肌ぬいでねじり鉢巻き、鋏み箱が重そうに見え
る。それをお供の連中が囃し立てる。獅子頭が
沿道に抱かれている赤ん坊を、丈夫に育つようにと噛みにまわる。鼻天狗がおどす。お下がりは早い
が酔いも手伝って上りはゆっくり御神輿担ぎは汗だくで練り歩く。
この船渡御の間は3支部の太鼓台は出船を見送ると浜に太鼓台を据え、若衆達は帳元の家か浜に
近い支部内にある大きな家へ中食(ちゅうじき)に行く。支部長を中心に役員幹部を上座にひとしきり、
注意など聞いて娘連中が心をこめて握った赤飯の握り飯を食べる。ここでも御神酒が出る。食事が終
われば浜に下りて御輿船を待つ。船影を見届けると支部長の合図で3支部のちょうさが一斉に担ぎ上
げられる煮干の干し場から渡海の船着場、波止の上でところ狭しと担き競べ。勇壮この上もない。沖
の御神輿船はこれに応えて五色の旗、満艦飾の大漁旗をなびかせゆっくり舞う。汽笛の音が勇まし
い。
長い賑やかな行列も終を迎えドンドコさんの太鼓の音と共に先番の太鼓が随神門をくぐり矢大臣(や
だいさん)の広庭で担ぎはじめる。御神輿は石段横のお旅所
に据えられひと休みする。「皆来い。みんな来い。」中老のおっさん達が私達悪童を呼び集め、御神輿
の前に輪を書いて 子供相撲が始る。3番げし、5人抜きとこれまた賑やかでした。中老のおっさん達
が腰に下げている賽銭袋が魅力的でした。賞金がはずんでいました。
御神輿が本殿に収まる矢大臣から広庭へ次々と太鼓の担き競べが終わる頃、おもちゃ屋も綿菓子
屋も、のぞきの屋台も店じまいにかかる。境内のどよめきも静かになり太鼓台に美しく紅白の提灯が
吊り下げられるようになる。「何時も祭りであったらなあ。」となごりを惜しみ暗くなるまで上町(かみじ
ょ)のちょうさにぞろぞろついて行き、探しに来られた想出がよみがえる。
「あとの祭り」とよく言うが祭りのあとは、何かうら淋しい。この秋祭りがすむと朝鮮行きの船が出る。
打瀬網は宇部に長洲に八島灘にいわゆる下行きに下って行く。連日追い手を待って白帆が西の海に
間切って行く。帰りは正月真近になるだろう。
この島の祭りが何時から始ったのか、形態が何処から伝承されているのか、今もって不明です。しか
しふる里の鎮守の森の宮の祭りは何処に住んでいても、幾つになっても懐かしい想出として心に残り
ます。特に幼い時の思出は鮮烈です。
昭和55年 夏

亡くなった父が子供の頃(70年前)の秋祭りの様子を書いてます。子供相撲は今はありませんが、
その他は現在と同じです。伊吹島の太鼓台の歴史は古く文化5年(1808年)上ノ町の太鼓台が新調
された記録があります。旧の太鼓台がその時あって新調されたのか、伊吹島に始めて太鼓台が入っ
たのか不明なところはありますが、御神輿のお供としての太鼓台として190年年近くの歴史がありま
す。伝統ある太鼓台であることは間違いありません。年に一度の神様のお出まし、船渡御での無礼
講 神様に喜んでもらう子供相撲等 民俗学上も貴重なものです。これからもずーっと長く続いてほしい
です。今回 松山で活躍していらっしやる写真家の
倉場 義晴さんが平成10年に撮影した写真を倉場さんの許しを得て紹介します。
倉場さんありがとうございました。http://plaza24.mbn.or.jp/~kuraba/
伊吹島秋祭りのすばらしい写真がたくさんあります。
四国の文化をクリックすると香川県・観音寺市・伊吹島の祭りが出ます。



第7話 出部屋
自分の誕生や生後一、二年の記憶を持つ人間はいない。ただ、父母や身近な者からの聞き伝えしか
ないのが普通です。私も出部屋育ちです。出部屋友達も何人か居ります。
聞き知る限りでは、出部屋は昔からこの島にあったらしい。瀬戸内海、いや、全国的にも珍しい施設
ですが、記録がないので、発祥の年代は、はっきりつかめません。現在在の北浦の丘にある敷地は
今から四百年位前に「ちょうち」という家の人が土地を寄贈したものと聞いています。三好長七という人
で現在の茂左エ門(もだ)や七ロエの先祖筋に当たるという人です。
伊吹は昔からの漁村で漁業に生活を依存して来た離島であるために、今では考えもつかない漁に関
する伝承や慣行が続いて来ました。漁船に祀る船霊(ふなだま)さんは、女性で嫉妬深く女性の月経
とかお産等は特に穢れると忌み嫌うと言う言い伝えがあり、若しその女達が船に乗るとか乗組員に接
触すると不吉が起こり、不漁に見舞われるという。板子一枚下地獄の海上生活、漁に生活を支えてい
る島民にはこの伝承は厳しく守られて来たものでしょう。海は男の舞台で婦女は一切漁に関係してい
なかったようでした。
女性が漁に進出するようになったのは、明治の日露戦争以後と聞いています。応召によって男手の
少なくなった打瀬網が現れ、生活の為に二、三の女性が船に足をかけたのが始りだといわれていま
す。
この明治の中頃までは既婚、未婚を問わず婦女子の月経時は出部屋に行って穢れを除け終えると
潮で身を浄めて帰るのが習慣でした。産婦はお産を家ですませ、クマウジの方位をさけよい日を見て
出部屋に行って(その日の内に行くこともある)戦前、までは生活道具を持った親戚に守られて出部屋
に行く行列をよく見受けたものです。
約一ケ月間、母親は出部屋に行って産褥を静かに養生する。食事はものすごく簡素でお産前までは
いろいろの栄養のあるものを自由に食べられるものの、産後は厳しく制約される。悪血を下すとかで出
部屋に入って一週間以内に「いもんじゅく」と「ちぬ」を一回食べるだけであとは、味噌にいりこのおか
ずばかり、出産祝いに近隣、親戚から送られた米、麦を主食に釜屋で各自が自炊する。土鍋や雪平
鍋が炊事道具の主であった。三十日間の産の忌あげがすむと家に帰ることになる。母親はどんな寒
中でも北浦の港へ下りて行き海水で全身を浄め出部屋で使用した手桶や道具を海水で綺麗に洗って
きました。赤ん坊は初毛をクリクリに剃られて親子、日暮れに帰宅していました。海に浄目に行く道を
『出部屋道』といって、今に残っています。三十三日目に出部屋飯(ウケジャ飯)を焚いてお祝いを受け
た人々全部を招いて振まうのも習慣の一つでした。
私が生まれた当時の出部屋は、瓦葺きとはいうものの、粗末な建物で敷物は藁むしろ、家から持っ
ていったゴザや薄べりがせめての救いであったとのことです。二人づつの相部屋で夜の灯りは「ことぼ
」一つ。縫い物等、不得手そのものの、私の母親もコトボシのあかりで、のりかえの着物を何枚も縫
ったということです。コトボシから上がる油のかがりで鼻の穴も真っ黒になった時代でした。
今でもそうですが、出部屋のある地所は北浦湾を一望に眺め沖を通る漁船の姿ものどかでこの上な
い見晴らしの良い丘です。男子禁制、嫁姑の人間関係、煩雑な家事から開放され、どんなあばら屋で
も、不便でも縫い物以外は寝ようが起きようが何もしなくて良い自由の一ケ月、目に見えて育って行く
可愛い子供と水入らずで過ごす一ケ月は若い嫁達には一種の開放感にひたった別天地であったので
しょう。家に帰る時は粗食にもかかわらず母子共、健康で丸々と肥えて帰るという。前庭には二かかえ
もある大きなユーカリの大木があり、出部屋の敷地をうっそうと緑で覆っていました。敷地の外側はダ
ラダラのよし林で北の端にコンクリートでこしらえた「あとざん」を捨てる大きな穴がありました。よし林
の中には石を盛った水子の墓らしいものも存在していました。
月はまたぐかもしれないが、一ケ月の間に出部屋で生まれ育った赤ん坊達は大きく成長した後まで
出部屋友達だったと仲良く交流が続いているのも情のあることです。
ボロボロのあばら屋から、昭和五年改築、昭和三十一年に大改築が行なわれ、診察室も分娩室も完
備し助産婦も置き出部屋から伊吹産院と近代化になりましたが、利用したのはわずかの間、めまぐる
しい時代の流れと医療の進歩、人口の減少、漁労方式の近代化が重なり、産婦の殆どが地方(じか
た)の産婦人科の病院で産むようになりました。
神を恐れて不浄を忌み穢れを除く等の遺風は完全になくなりました。出部屋という特異な設備も歴史
の遺物となり忘れられつつあります。民俗学的見地からも価値ある出部屋もこのままでは朽ちてしま
います。四百坪もあるこの敷地と設備を生かして心ある有志の手で、島に残る昔からの漁具とか古い
生活道具、文化遺産を展示する資料館として残して置きたいと思うのは私の独り言だろうか。出部屋
こそ私達の故郷の中のふる里です。


私の家から歩いて2分の所に出部屋がありました。残念ながら県道工事のために解体されて今は跡
地のみです。県道も大切だが、出部屋はもっと大切なものです。先人の貴重な遺産です。出部屋再建
の気運を盛り上げていきたいです。医療も進歩してない頃、新生児の死亡率も高かった中で、島の人
は地域ぐるみで子供を大切に育てています。産屋は伊吹島だけでなく全国に存在していました。その
中で伊吹島の出部屋は先人の努力により共同で使用し、母子の健康を考えた最新の設備を備えたも
のでした。四百年の歴史に終止符が打たれました。昭和五年の改築の設計図が残っているのが幸い
です。日本人とお産のかかわりを考える上で貴重なものです。産屋に関しての参考資料です。民俗
学 医療面でも注目されています。

@ 瀬戸内海島嶼巡訪日記 昭和12年 アチック・ミューゼアム編
A 児やらい 昭和19年 大藤 ゆき
B 女の民俗誌 昭和55年 瀬川 清子
C 新・旧観音寺市誌 昭和37年昭和60年 観音寺市
D 日本の民俗・香川 昭和46年 武田 明
E 伊吹島の民俗 平成 3年 香川民俗学会
F 出産の情景 産小屋を訪ねて 平成8年 森田 せつ子
http://health.met.nagoya-u.ac.jp/KENKOU/kb16/morita16.html
名古屋大学の森田先生よりお許しが出ましたので リンクさせていただきました。(H.13.12.18)伊吹
島の出部屋跡にも立寄られています。



第8話 亥の子
浜に赤トンボが群がって飛びかう旧暦の10月ともなると穏やかな日和が何日も続く。鯵、鯖、鰯、市
場にあがる魚の種類も漁も多くなり仲買に値を叩かれ大漁貧乏をぼやく声が高くなる。この時期を昔
から島では10月のおうこう(天秤棒)投げとか10月の高凪(たかなぎ)ともいう。
空はあくまでも高く澄んで三崎半島をはじめ伊予路の山々、近くの島々が紺碧の海にくっきりと影を
映し地曳で獲れる大羽いわしと大根の煮物が特に旨い季節になる。
山の雑木林も赤く色づき、枯れた野菊やススキのまじった下草や畑のほとりの雑草が焚きもんにきれ
いに刈りとられる。打瀬も凪で休み、いわしも安い。めったに百姓を手伝わない男連中も畑に狩り出さ
れ、猫も杓子も山に海に島は秋の農繁期に入る。姉さんかぶりの白の手拭い、女、子供の芋掘りの
賑やかな声があの山こちら等の畑からこだまする。麦と並んで芋はこの島のかけがえのない生活の
糧であった。麦、芋の豊作と豊漁を祈る素朴な風習が亥の子(いのこ)である。
亥の子はこの10月のはじめての亥の子の日が『百姓亥の子次の亥の子が『店屋亥の子』であっ
た。幼い頃はえいとを搗きに行くのが楽しみであった。多い時は10人近くも悪童が集まる。このような
組が2組も3組もあった。洗絣(あらいざらし)の縞の袷せの着物、素足に尻切れ草履、手に手に石こ
ろを持ち大百姓や、村君、愛想の良い店などの門(かど)の地面を唄に調子を合わせて石で搗く賑や
かなものであった。これを『えいとを搗く』という。秋の日はつるべ落し。家々にランプの明かりが灯る頃
から肌寒くなる夜更けまでで、ガヤガヤと村中を廻ったものである。「祝いましょうか。」「祝え祝え。」の
応答のすえ声を合わせて大声で唄ったものだ。

えいとえいと こいさら亥の子というて 祝いたる人は四方の隅に倉建てまわし
大黒さんの法は 一で俵踏んまいて 二でにっこり笑うて 三で酒つくって 四つ世の中よいように 五
ついつもの如くなり 六つ無病息災に 七つ何事ないように 八つ屋敷をひろめ建て 九つ小倉を建て
まわし 十で宝を収めたて 来年の麦も今年の麦も穂に穂が咲いて 作り冥加も良いように 商い冥加
も良いように 祝え祝え金倉を祝え 銭も金もがっさりがっさり 大根のきられも除くように かぶらのき
られも除くように 祝え祝え銭も金もがっさりがっさり
「祝いましょうか。」と言って返事のないケチ臭い家には
祝わんとこにや 端切れで家建て 馬の糞で壁塗って 草履のやぶれで屋根ふいて 中 貧乏 中
貧乏 とどなり悪態をついて横丁の溝で皆んな並んで讃岐の連れしょんべん。

仰げば高く澄んだ星空、新月の影、下の溝辺からはコオロギのすだくのが喧しく聞こえていた。素足
で踏んだ霜の感触が今でも忘れられない。家々で貰ったゆでガンコロやふかし芋、店屋で貰ったドン
グリの飴やカットにギンボ、各自が懐から出し合い仲良く分けあった懐かしい想出、わんぱくの昔が眼
に浮かぶ。亥の子も半世紀も前の風物詩で昔話の仲間に入ってしまった。

戦前まで、伊吹島でも亥の子の行事が行われていましたが、現在は行われていません。亥の子の
歌を覚えている老人はまだ島にいるので当時の様子を、聞くことが出来る。亥の子が終われば、暖か
い瀬戸内海の島でもこたつが恋しくなる。

亥の子は瀬戸内海の島々でも行われており岡山県笠岡市の真鍋島にもあります。真鍋島のHP(電
脳真鍋島新聞)の真鍋島の歴史の中に詳しく入ってます。伊吹島の亥の子も紹介してもらっていま
す。ぜひ、見て下さい。



第9話 三十石船と恩美新六
真浦の浜、お半田の明神社の前に古い大きな常夜燈が二基建っている。一つは慶応2年のもので昔
の西宮『水船』に関係した人達が奉納したものと思います。『蛭金八』(えびすきんぱち)と刻まれてい
ます。『蛭金八』とは蛭さん、金毘羅さん、八幡社のことで蛭金八燈篭とはこの三社に寄進されている
燈篭です。
今一つは寛永2年(1790年)2月建立で伊吹八幡宮に奉納されている三十石船にゆかりのある有
名な常夜燈です。今から200年も昔のもので長い風雪に耐えて石に刻まれた当時の有志の方達の
名前も風化して読み取りにくくなっているが、赤みかげ石の立派な石燈篭です。
往時の華やかなりし三十石船のおもかげの一端が偲ばれます。三十石船というのは江戸時代、淀川
伏見京橋から大坂天満橋八軒屋まで四十キロを双方から朝夕、二回上り下りしていた二丁櫓四人
船頭、お客は二十八人乗り、積荷三十石の定期旅客船のことです。明治の初め鉄道蒸気船が現れる
まで続いたといいます。浪曲の森の石松が乗ったのがこの三十石船で江戸時代中期から明治の初期
までこの島から三十石船の船頭やら若衆にまた自前で船をこしらえ船主として乗り出す者もあり、漁
業一本に生活を依存していた島民にとっては西宮の水船と共にかけがえの無い出稼ぎ機関、収入源
であったものです。古老からの聞き伝えを立証するのがこの三十石船ゆかりの石燈篭です。台石の前
部には大坂連中、横面には島内の有志の名前が刻まれています。裏には世話人として三好文左衛
門、三好金右衛門、恩美新六の三人の名が連なっています。恩美新六という人は伊吹にゆかりのあ
る人で小さい時分に上方に上り何処かの藩に仕官したものの、後に浪人となった侍です。文武両道、
読み書き、算盤の達者な人でたまたま淀川の伏見に住んでいたものです。この人を頼って伊吹から大
勢働きに行ったものと思います。義侠心の富んだ思いやりと世話好きな人で三十石船の船頭から若
衆の面倒を見、帳面方を手伝っていたと言います。三十石船の大坂での肝煎であったというから今で
いう責任者、世話役であったものです。
この人の世話で三十石船が縁で養子に行ったり嫁を貰ったり島と上方の交流も盛んになり島の経
済、文化にかなりの影響を与え亨保から寛政にかけて島の歴史に賑やかな足跡を残しています。伏
見から大坂まで当時の船賃は七十二文、大坂から伏見まで川を遡行するので運賃は二倍であったと
いいます。下りはよいが川をのぼるのに屈強の若者が船に綱をつけて川岸からエッサ、エッサと引張
ったと言います。何時の時代も同じこと、この寛政年間に船賃値上げの争議がありました。今でいうス
トライキです。その伊吹組の首謀者が恩美新六であったとのことです。今と違って船賃関係は総て奉
行所の管轄で船番所支配、値ぎめは全部お上の決定で収入の何割かは運上金の名目で過酷なとり
たてをくっていたものです。
直訴とか強訴、中でも一揆にまがう争議などはもっての他、天下の御法度、船賃他の値上げ要求は
通してくれたものの、恩美新六は皆の犠牲になりお上に召し捕られその罪を問われて刑死したとの話
です。時に文化八年(1811年)辛未七月六日のことです。
恩美新六の直接間接に伊吹の島に貢献した功績は大きいもので皆はその徳を偲び毎年の盆踊りに
はお寺の境内で恩美くどきといって島民が踊りその霊を慰めていたと言います。泉蔵院の観音堂の横
にその時代の有志の手で建てられた立派な恩美新六の墓がありますが、長い歳月で墓石に刻んで
ある略歴も寄進した人の名前も判読出来ません。
有為転変、時代は変わり恩美新六の名も恩美くどきがどんな踊りであったのか知っている人も無くな
りました。先人功徳を偲んでか、今になっても、その墓石の前には投げ花が供えられているのが身受
けられます。明神さんの前の常夜燈に刻まれている人名と恩美新六の墓石に記されている略歴、人
名等は古記録の少ない島の歴史を知る上の数少ない実証です。先祖の残してくれた遺跡を何時まで
も大切に残して行きたいものです。恩美新六の享年は五十八才でした。墓石の台石に刻まれている
名前は次の通りです。
世話人 願主 平八 藤二郎
施主 三十石中
九平 勘兵衛 文助
忠蔵 仁平太 兵助
浅八 与八 多兵



第10話 水船考
灘の生一本』で知られている灘五郷(西宮郷、今津郷、魚崎郷、御影郷、西郷)の醸造家へ西宮の
霊泉から宮水を積みこんで運搬する船水船(みずぶね)と言いました。天保十一年(1840年)魚崎
の山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が宮水の効用を発見して以来、灘五郷の酒造家はこぞって宮
水を使用しました。
江戸末期から明治、大正の中期まで宮水輸送がトラック便に変わるまで、この水船が宮水を運んで
いました。二斗入(36リットル)の水樽を三百丁、四人乗り三丁櫓の四トン位の和船でした。
兵役とて無かった時代、伊吹島の青年、若衆のほとんどがこの水船に出稼ぎに行ったものです。金
持の倅だろうが貧乏人だろうが、あるもの、無いもの誰もが一苦労して来たとのこと。この水船に若衆
として出稼ぎに行かないものは嫁をとる資格が無かったといわれ、一人前としてとり扱ってもらえなか
ったと聞いています。
酒を造り込むのは寒中の最中(さなか)、霊泉からの水の汲み出し船積み航海とそれに蔵入、荷
と並大抵の重労働ではなかったといいます。人語に絶する艱難辛苦をして働いたものといえる。一
種の若者の修業場であったともいえる。
骨身も凍る海風、西風のピュピュうなる酷寒。まだゴム靴とてない時代、素足に藁草履、腰みのに尻
切伴天一枚、自分の腰の高さもある二斗樽を天秤で担って海際から長い歩板(あゆみいた)をユサユ
サゆすり水船に積み込む。肩の痛さも、身を切る寒さも何のその、積荷が満船になる頃は汗で伴天が
びしょになったと言う。宮水は攪拌すればする程水質がよくなり、酒の味が良くなるとかで、凪の時は
船をユサユサゆすり櫓声揃えて目的地までクタクタになるまで漕いだとのこと、三丁櫓、順潮の時はま
だ良いが逆潮の時が大変船足がずっぷりはいっているので船が前に進まない。そこで船に船頭を残
して若衆は陸に上がり長い綱を腰に巻付け、波打際を引っ張って走ったと言います。しかし、酒はお手
のもの、酒好きな者は盗み酒、天下御免、酒蔵のしぼり樽から滴るトロッとした原酒をやかんに貰って
来て作業を終えて皆で分けて呑む味は格別であったとか。島に酒豪の多いのはその為か。島から出
稼ぎに行った若者は皆真面目で元締(世話人)の指図をよく聞きお互いに切磋琢磨、幸い作業も修業
と思い頑張り抜いたとの事。各地から出稼ぎに来ている人達の中で伊吹の者が一番重宝がられて人
気があったと古老から若い時代の話をよくきかされました。
この島にとって水船は三十石船と同じように江戸時代からのかけ甲斐のない収入源、外貨獲得の出
稼機関でした。そして漁業以外に道が無い閉ざされた孤島と時代と共に移り変わる都会との交流を深
め、文化、知識、情報の収入により、海上三里の離島のハンデーをカバーして来たものです。島民の
もつ進取の気性もこの二つの出稼ぎで培われて来たものでしょう。
水船で鍛えられその重労働に耐え抜いて来た男達は、水船の衰退と共に直ちに朝鮮出漁に眼を向
け、帆と櫓を頼りに玄海灘を越えました。後年、島の渚に金波銀波の波が寄せる賑やかな一時期を画
する原動力にもなりました。人は生まれ人は死に、花咲き花散り時代は次々変わって行く。この水船
で苦労した昔話をする人々もだんだん少なくなって行く。
ほれて通(かよ)へば 千里も一里
海は俺(おい)らの 恋女房
沖のかもめと 船乗り稼業は
何処の港で 浪まくら
―追分の節で唄った百年も前の水船の船頭衆の歌



第11話 伊吹名勝
伊吹名勝

伊吹名勝は 真浦の浜よ
会うも別れも 桟橋で
佳きは帆まかせ 鼻歌まじり
凪の八丁櫓や 戻り舟
七とこ三里を 舟が航く
えびす金八 明神さんに
鎮守の祭りの 御旅所
お半田えびすに 亀井戸えびす
赤崎お姫さん 豆狸
猫がみさんに 下り松
波にすれすれ 小舟がくぐる
台の鼻とは 何置くとこぞ
沖の舟磯 名代の釣場
大小の釣舟 糸たれて
合田館は 城の内
館は無くとも 名は残る
作る高キビ 血のあと滴り
合田明神 薮の中

一本松より 西浦見れば
名のある石の ちらほらと
畳石やら 天満石
意気な名前の 黒髪の石
西浦えびすさん 和田の窪
御嶽 道津加 烏帽子岩
海の中から 息が吹く
これぞ此の島 名の起こり

一望千里の 鉄砲石
昔は煙火の 古戦場
芸備讃予が 皆見える
不動嶺の鼻に 夫婦岩
仲睦まじく 沖を見る
廻れば石門 有難や
三十三番 観音さまは
高い崖から 見てござる
お万悲しや つべ突き岩に
うはすげの草 生い茂る
音に名高い 波切不動
穴の中より 波路を守る
五丈三尺 石の塔
塔の側には 籠り堂
九十九折りには 桜の並木
弥生三月 花霞み
弘法大師の 閼伽井の泉
今もこんこん 水が湧く
前に黒岩 猿尾嶽
水の下から 八幡林

上に登れば 瀧の宮
牛頭天皇の 御霊社
天狗の休む 泊り石
其の名もゆかし 苔の峰
矢根の先から 京目に立てば
海の向こうに 三崎が見える
昔 ときめく三好の姫が
都を偲んで 流した涙
意味もありけり 京目の地名

波も静けき 大浦湾や
古波止 新波止 北浦港
山の神さん 灯台松に
岩屋の懸崖 合戸の穴よ
大園石は 海の中
水は白いが 黒輪の泉
呑んで恵方の 大浦えびす
沖にえびす櫓 鹿島立ち
海に埋まった 棒添岩や
残る瓶石 何入れる
松の色濃き 黒崎鼻に
洲鼻 赤ごろ 大師堂
山伏さんの 法螺貝が鳴る
膳棚まわれば 割岩の
名にも恥じない 自然石
よしよ川やら 芦の谷
膳棚よべすに 詣りして
渡船場への 道を行く

瀧の宮より 戻り道
割れば血が出る 宮目の石よ
高岸 昔の三好の館
本宮さんに しめ竹さん
青木の社に 頭下げ
其の下見れば 寺屋敷
二反六畝も あるときく
泉蔵坊の 跡なるか
御海蔵寺には 荒神さん
鐘が聞こえる 大日堂
七浦えびすの 本やしろ
沖の大漁を 祈るやら
大木戸さんに 願をかけ
北浦名勝の 出部屋を伺うて
体清めて 八幡詣り
島の氏神 鳥居が高い
日天 月天 貴重な化石
前に学び舎 小学校

三社詣りは 天神さんで
菅公さんの 腰かけ石よ
島の檀那は 泉蔵院よ
鐘つき堂やら 観音堂
八百余年の 由緒あり
北向山やら 見越の山に
誰方が眠るか 御陵墓

円上島には オンゴの礁よ
金波銀波に 魚が群れる
此処が名代の 龍宮城か
裏の穴口 菊花石
股の明神 矢竹の話
戎の社に 小股島

一度は こんかい 伊吹の島へ
名勝古跡が 待っている

雲の峰 燧の灘を 囲みけり

昭和五十八年 夏 三好 秋光


伊吹名勝いかがでしたか。伊吹島の地名を織り込んでいます。幾つ地名がわかりましたか。解らない
地名は島のお年寄りに聞いてみて下さい。資料館でもわかります。
漁業の盛んな伊吹島も時代と共に変貌し、過疎の島になりつつあります。海中に埋もれた岩、枯れた
名松、消えて、人の口にしなくなった地名も多くあります。地名は、私たちの先人の生活を知る手掛か
りとして貴重なものです。地名を調べることにより島の歴史の一部が解明できるかもしれません。まだ
たくさんの地名が存在していると思います。ぜひ、教えて下さい。今なお、西浦の沖ではブクブク 気泡
を吹きあげています。その様子を写した写真も資料館にあります。ぜひ、見て下さい。



第12話 百手祭り
新春とはいうものの、まだうすら寒い。「百手米もて御座らっしゃれ、百手米もて御座らっしゃれ。」
まだき島の辻々から太いよく通る 走りのおっさんの声が聞こえてくる。百手祭りの米寄せの触れであ
る。
柱暦の紙がはや、30枚も減って正月気分のほとぼりが暫くさめた時分、旧暦の2月1日が恒例の百
手祭りである。十日戎がすみ15日の七五三縄が除けられると宮総代のおっさん達が2,3人集金袋を
提げて戸別に宮割りの寄付を募って歩く。日足が米粒ほど長くなってくる。
今年は南部の当番で中老長の家は忙しくなり ごぼう洗いのおっさんから古老までの人の出入りが多
くなる。百手祭りの役割を決めたり、射子(いご)の衆の集計、行事の予算、什器の整理、的づくりの
段取り、カワラケの注文に至るまで祭りの宵はてんやわんや。祭りを滞りなく無事とり行うのが当番支
部の責任で中老も青年も大変である。青年支部長は目付役ということで帳元であった私は他の2人と
「米寄せ」の晩 打合せのため頭家(とうや)に招かれた。
頭家が社務所に定められてはや5日目とか。女人禁制になっているので炊事から雑用まで皆中老の
ごぼう洗いの役目である。焚もの松の材束が山のように割られて くど の側に積まれている。陶司の
おっさんが「今年の甘酒は出来が良いぞ、一っぱい味きけや。」と言って七五三縄を結んだ大きな酒樽
から杓で酌んでもてなしてくれた。頭家の中は甘酒の香りと「ほうどろ飯」を焚く煙で一っぱいである。
なげしには祭りの式次第、役割が黒々と張り出されている。頭人、総目付、矢取、陶司、脇陶司、料
理人、役使(やくづかい)、給仕人、太鼓打、目付、支部長の名前が麗々しく書いてある。時代感覚が
おかしくなる。
頭人は家の仕事もほったらかして早1週間も帰らず陶司、脇陶司と共に甘酒のつけ込みとその守りに
頭家に泊り込み。肌着の取り替えは役使が自宅まで往復とか。朝は日の出前に東波止の端(はな)
で海に入り斎戒沐浴、身を清めて往復の途中、人に会っても無言の行で頭家に戻ってくる。頭人の精
進潔斎、如何によってその年の甘酒ほうどろ飯の出来具合が決まり、山と海の豊凶がかかっている
と言うから責任重大である。総目付である中老長と頭人、陶司等の偉者(えらもの)は上座に座って射
子の衆の整理やら太鼓打、矢取りの少年の人選、他の連中は囲炉裏を囲んで昔話や漁の話、明日
の打合せなど遅くまで話に花が咲く。
一夜明ければ、窓の外は一面の銀世界。「百手祭りに雪が降るなどめったにない。吉祥じゃ。」と古
老が言う。祭りが厳粛でしかも晴やかに盛大な陰には中老、青年の裏方の苦労が大変。一丁羅の袷
に馬乗り袴、股立ちとってわらじ履き。昔の下侍のいで立ちで幹事長を先頭に在島の南部青年が朝
早くからぞくぞく集まって来て20センチも積もった雪かきに一汗かいた。
青年の役割は祭りの催場(さいじょう)づくりと見物の警護、射子の衆の放つ矢の追求で支部長はそ
の目付であるとの事。
中老の力作である大的、青竹を割りて束ねた骨組みに白い障子紙を張り黒々と三重丸に書いた標
的、優に一丈はあるだろう、かなり大きく重いものである。的を立てる笹竹を飾る。潮桶に榊の枝を入
れる。幔幕を張る。総目付、神官の床几、太鼓打の縁台から常小屋の監視、射子の衆の席順の構え
まで青年の仕事はかなり忙しい。
「射子の衆集ましゃれー」と走りのおっさんの声が島中に聞こえたのが、朝の9時頃、今年は当番支
部を除いて40人とか。黒紋付に麻裃、白足袋姿の射子衆が拝殿でお祓いをしてもらいガヤガヤと
社詣りをすませ用意して来た弓矢を携え、矢口踏み初め(やぐちふみぞめ)のおっさんに先導されて催
場に入って来たのは10時も過ぎてであった。61、42の厄払いから里帰りの青年、初めて彼女に縫っ
て貰った指袋やら数珠袋を腰に提げた若衆。式次第にのっとり重ね座布団の自分の席に着く、20人
づつ2組に分かれて次第に弓を引く、三度弓からカワラ掛けまで、射子の衆が弓を射る。一矢一矢毎
にドンドンと太鼓が叩かれる。
ピン、ドンドン。上手なもの、的外れでとんでもないところへ飛ばすもの、溜息やら歓声やら雪上がり
の上天気、宮の広庭は賑やかになってくる。酔っ払いの潮払いや見物の中の喧嘩やら騒々しい。控
えの射子の衆の前や横はせんべいやら蜜柑、菓子、厄払いの赤飯の包みで山盛りになる。給仕人が
甘酒を配ったり御神酒をつぎにくる。青年が牛蒡にこんにやく、鯵かなにかの魚を添えた、にしめに昼
飯をうるしの剥げた木皿に盛って配って歩く。
見物人も昼食に帰り一つ時して午後に続く。矢取の少年は紺絣に縞の袴、三度弓、カワラケと、的外
れに飛んだ弓の数を青年が探して来たものと的から抜き取った矢を一たち一たち射子の衆の員数に
あわせ「矢数が揃いました。」と言って矢口踏初の確認を受け次々に手渡す。カワラケ打ちも矢取の役
でカワラケの標的に矢が当たると青竹でカワラケを叩き落とす。可愛ゆくて甲斐がいしい。見物人は先
ず八幡さんにお参りして帰りに頭家に寄り、カワラケでほうどろ飯を戴き、陶司の汲んでくれる甘酒
「うまい。」とか「良い味」とか言って馳走になってくる。前に廻って自分の息子、隣のおっさんに声援を
送入れ替わり立ち代わり 島中の人が宮の広庭に集まってくる。
カワラケがすんで、悪魔払いの黒星が的にかかる。銭百文と黒星の横に書いてある。黒星が早く射ら
れると早くすみ、遅くなると黒山の人のどよめきが遅くなる。
今年は二たちで黒星が落ちた。跡かたずけも思ったより早くすんで青年達はホットする。黒星を落とし
た射子の家では矢口踏み初めの先達から総目付、神主さん、頭人、太鼓打、それに親戚、友人と
盤振舞で馳走する。銭百文がどれだけの値打ちか千秋万歳楽の意味もわからなくなる。
明けて2日目、後の祭りとはよく言ったもの、祭りのあとの始末は大変。朝、頭人をはじめ頭家の一
統、役付き、中老の主だった者、目付の支部長が拝殿でお祓いを受ける。大的を下ろしその真中を大
きく破いて一列に並んで破いた穴をくぐり抜ける。これを胴破りという。どんな加護があるのか、何のし
きたりがあるのか面白い。
支部青年は昨日のいで立ちで今日も集い、担桶(にないおけ)に甘酒をかつぎ、ほうどろ飯をへぎび
つにもって五ッ組位に手分けして各支部各戸別に一軒一軒配って歩く。夕方までかかって頭家で風呂
に入り、納来(のうらい 直会 なおらい)の酒肴に熱い豆腐汁で鮨等よばれて家路に着く。これで祭りも
滞りなく相済む次第である。
百手祭りの翌日からは畠はさつまいもの苗床づくり、浜は魚島の前仕事、イカの巣の拵えと島は春の
漁期に向かって一ぺんに活気づいて来る。
百手祭りは昭和34年の中老制の廃止を境に射子の衆が中学生に移って行く。百手とは百稲と書き
昔から稲の豊作を祈る行事であり、弓矢を射って年越しの祭りに年中の悪魔払いと豊年、豊漁を祈っ
た祭りでもあった。丸亀藩と深い関係があり、西讃特に三豊郡内の海岸地帯には今もさかんで厳粛に
執行されている。専門の武士と土着の武士との融和を図る意図が行事のはしはしに汲みとれる。豪
族 土着の武士の多かったこの島には昔から盛大な百手祭りが行われたと思考する。時代と共にこの
行事も型式になり、段々に昔が忘られて行くのが淋しい限りである。

昭和30年百手祭りの頃の日記を綴り合わせて 昭和55年


昔の百手祭りの様子がわかります。中老制の時の様子です。延宝元年(1673年)百手の式次第を
書いた文書が伊吹八幡宮にあります。それ以前から百手は行なわれていたと思います。連綿と今日
まで続いていることに感動します。島の人口が減り 行事の継続に問題がないわけはありませんが、
いつまでも続いて行ってほしいです。





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