ドンドン ドン ドンドン ドン。秋冷の朝のしじまを破り鎮守の森から単調だが腹の底に沁みこむような
太鼓の音が聞こえてくる。
祭りの朝は太鼓の響きと家々の神棚を清める潮汲みから始る。
潮汲みは子供の役目。真浦の浜ま
でショウケ(柄のついた竹筒)を持って潮を汲みに行く。
私達の子供の頃、秋祭りは朝鮮行きやら打瀬の下行きに合わせて、旧暦の8月14日15日でした。
楽しみの秋祭り 銀飯に豆腐汁 鮨 かきまぜ 焼魚 刺身 野菜の煮付けが座敷の真中の食卓一杯に並
んでいる。腹一杯食べ 早々に宮の境内に走り込む。
常小屋の前には、地方(じかた)から来たいろいろの物売りが天幕を張って並んでいる。おもちゃあり
アイスクリームあり飴湯がある。くじ引き 綿菓子屋 のぞきからくりがある。
祭りの
第1日は宮入りと言う。3支部の
太鼓台が広庭に勢揃いして担き競べをする。何処が時間が長
いとか力が弱いとか、賑やかなことこの上ない。「シャン シャン シャン 仕舞うてシャン シャン」支部長
のおっさん達が丸く輪になって拍子木を打つ。皆揃って
3社詣り。(八幡さん、荒神さん、天神さん)支
部長の白装束に黒の角帯、首に下げた拍子木と腰に吊った数珠袋が印象に残っている。夜は提灯が
吊られ賑やかに飾った 御花 の吊旗が切りたての竹の葉に映えて美しい。常小屋では、芝居、映画
が行われ大入り満員。酒の匂いと太鼓の響きと人々の喧騒で祭りの一日は暮れる。
今から思うと昔の人は敬神の念も厚く目上の人を大事にしてその訓をよく聞きました。昔からの
宿
元、
連中組織もさることながら八幡神社の氏子を基盤とする
若衆組織(支部組織)が制度化されて今
に続いています。男の子は17才になった年に若衆入りが認められ名実共に一人前とみなされます。
ごぼう洗いから幹事 幹事長 理事 と年令的に段階がありその上に支部長が位置し、長幼の序列がは
っきりし上の者は下の者を監督し面倒を良く見、相互扶助、切磋琢磨の美風を生みました。その為に
青年層が中心となり島の発展の原動力となって来たものと思います。島に祭りがある限りこの支部青
年組織はいつまでも残しておきたいものです。
2日目は本祭りです。朝の10時頃、本殿で祭事をすませた
御神輿の行列が拝殿を後にして賑やかに
真浦の浜へ降りて行く。
お供の役割は各支部の当番制でした。先頭はナギナタ持ちの子供が二人、
一丁も先に刃を交差して道を警護する。二人の奴姿の鋏み箱が行く。先払いは金棒を持った子供が
二人、台笠、笠立、大鳥毛、小鳥毛、鉄砲に矛が、二組宛、天狗、獅子頭が狩衣姿で練って行く。御
神輿はゆっくりしかも粛然と進む。
「ホーサンじゃ ホーサンじゃ」御神輿を担ぐ者は10名当番支部の
42才の厄年の者が選ばれる。白
い水干衣装に立烏帽子が金銀の神輿の金具に映えて美しい。鳥居から浜に至る沿道には島民の老
いも若きも黒だかり。パチパチと柏手の音と共にパラパラと賽銭が降って来る。御神輿の後から3支部
の
太鼓台が続く、宮入りの日はそうでもないが、2日目ともなると若衆の衣装も太鼓襦袢以外に燃え
るような柄の長襦袢を着て、薄化粧をしている。
昔の人は力も強く3支部相互の対抗意識も強かった。浜までの上り下がりの坂道を何屯もある太鼓
台を投げたら支部の恥だと全部肩で担ぎ、おまけに差上げたりして競争したものです。声の良いもの
は
伊勢音頭を唄ったりして力の余裕を見せました。「チョウサじゃ チョウサじゃ」 ドンドンドン 太鼓の響
き、歓声、島中が祭り一色で壮観で賑やかなものです。
御神輿は明神さんのお旅所に到着。神事が終わると満艦飾に飾られた巾着網の和船に乗せられる。
行列のお供全員、区長さん、組合長はじめ島中の偉い有志のおっさん達が羽織紋付で乗り込む。出
稼ぎから戻った人、地方(じかた)のお客さん、娘、子供から乗れるだけの人を乗せて港を出る。まだ
珍しい発動機つきの船に先曵きされて
海上渡御1時間余りで、股、円上島に本島と3島を廻る。あと
に、これも旗を立てた供船が5,6隻波をけってついて来る。今も昔も変わりはない。
御座船の和船は2隻に舫っているのでかなり広い。御神輿を中心にしてこの時ばかりは神も人も
無
礼講、3島巡りの1時間余りは、船中呑めや唄えのさんざめき。御神酒がかなりまわる。当番の若衆
が用意した墨汁で神輿の担手からナギナタ、鋏み箱、供廻り全員の顔にひげが塗りたくられる。海は
静かだが船上は大はしゃぎ。
再び船はお旅所に着き上陸、賑やかな御神輿の遷幸となる。鋏み箱のおっさんは船から上がると
道々、杓で御神酒を貰い酔うてフラフラ、奴襦袢も片肌ぬいでねじり鉢巻き、鋏み箱が重そうに見え
る。それをお供の連中が囃し立てる。獅子頭が
沿道に抱かれている赤ん坊を、丈夫に育つようにと噛みにまわる。鼻天狗がおどす。お下がりは早い
が酔いも手伝って上りはゆっくり御神輿担ぎは汗だくで練り歩く。
この
船渡御の間は3支部の
太鼓台は出船を見送ると浜に太鼓台を据え、若衆達は帳元の家か浜に
近い支部内にある大きな家へ中食(ちゅうじき)に行く。支部長を中心に役員幹部を上座にひとしきり、
注意など聞いて娘連中が心をこめて握った赤飯の握り飯を食べる。ここでも御神酒が出る。食事が終
われば浜に下りて御輿船を待つ。船影を見届けると支部長の合図で3支部のちょうさが一斉に担ぎ上
げられる煮干の干し場から渡海の船着場、波止の上でところ狭しと
担き競べ。勇壮この上もない。沖
の御神輿船はこれに応えて五色の旗、満艦飾の大漁旗をなびかせゆっくり舞う。汽笛の音が勇まし
い。
長い賑やかな行列も終を迎えドンドコさんの太鼓の音と共に先番の太鼓が随神門をくぐり矢大臣(や
だいさん)の広庭で担ぎはじめる。御神輿は石段横のお旅所
に据えられひと休みする。「皆来い。みんな来い。」中老のおっさん達が私達悪童を呼び集め、御神輿
の前に輪を書いて
子供相撲が始る。3番げし、5人抜きとこれまた賑やかでした。中老のおっさん達
が腰に下げている賽銭袋が魅力的でした。賞金がはずんでいました。
御神輿が本殿に収まる矢大臣から広庭へ次々と太鼓の担き競べが終わる頃、おもちゃ屋も綿菓子
屋も、のぞきの屋台も店じまいにかかる。境内のどよめきも静かになり太鼓台に美しく紅白の提灯が
吊り下げられるようになる。「何時も祭りであったらなあ。」となごりを惜しみ暗くなるまで上町(かみじ
ょ)のちょうさにぞろぞろついて行き、探しに来られた想出がよみがえる。
「あとの祭り」とよく言うが祭りのあとは、何かうら淋しい。この秋祭りがすむと朝鮮行きの船が出る。
打瀬網は宇部に長洲に八島灘にいわゆる下行きに下って行く。連日追い手を待って白帆が西の海に
間切って行く。帰りは正月真近になるだろう。
この島の祭りが何時から始ったのか、形態が何処から伝承されているのか、今もって不明です。しか
しふる里の鎮守の森の宮の祭りは何処に住んでいても、幾つになっても懐かしい想出として心に残り
ます。特に幼い時の思出は鮮烈です。
昭和55年 夏
亡くなった父が子供の頃(70年前)の秋祭りの様子を書いてます。子供相撲は今はありませんが、
その他は現在と同じです。伊吹島の太鼓台の歴史は古く文化5年(1808年)上ノ町の太鼓台が新調
された記録があります。旧の太鼓台がその時あって新調されたのか、伊吹島に始めて太鼓台が入っ
たのか不明なところはありますが、御神輿のお供としての太鼓台として190年年近くの歴史がありま
す。伝統ある太鼓台であることは間違いありません。年に一度の神様のお出まし、船渡御での無礼
講 神様に喜んでもらう子供相撲等 民俗学上も貴重なものです。これからもずーっと長く続いてほしい
です。今回 松山で活躍していらっしやる写真家の
倉場 義晴さんが平成10年に撮影した写真を倉場さんの許しを得て紹介します。
倉場さんありがとうございました。
http://plaza24.mbn.or.jp/~kuraba/
伊吹島秋祭りのすばらしい写真がたくさんあります。
四国の文化をクリックすると香川県・観音寺市・伊吹島の祭りが出ます。