伊吹島に関する 想い ふるさと自慢 調査研究等 発表する場を作りました。


伊吹島 再発見

原稿 お持ちの方 発表してみませんか。


Q 伊吹島を詠ず   七言絶句七首 睦風 高嶋睦徳 new
 観音寺市粟井町在住の吟道 臥風流 師範の 睦風(ぼくふう)高嶋睦徳(たかしまあつのり)さん
(昭和十四年生)に創作した漢詩七首を送っていただきました。同封の手紙の中で高嶋さんは「私から
見た伊吹島の素晴らしさを少しは伝えることが出来たかと思っています。」と書かれています。平岩マ
ス子さんの短歌と共に読んでみて下さい。


詠伊吹島(七絶 其一) 伊吹島を詠(えい)ず

  漁協市場

魚市晨聞氣勢豪  魚市(ぎょし)晨(あした)に聞く 氣勢豪たりと 

商機一去憶喧騒  商機一(ひと)たび去って喧騒を憶(おも)う

両三烏鷺侵窓入  両三(りょうさん)の烏鷺(うろ)は窓を侵して入り

飛閣梁頭窺水槽  飛閣(ひかく)梁頭(りょうとう)水槽を窺(うかが)う

  【通解】
 その日、魚市場のセリの声は高く響きわたり気勢は高く豪快であった。魚市場の盛況のピークは既
に終わり、騒がしさは去り、市場には静寂さが戻って来ています。後頭部に二本の白い羽冠をつけた
五位鷺が、市場の窓より侵入してきており、ヒョイと梁に飛び移り、動かずに水槽の魚を鋭く狙ってい
るのを、侮ってはいけない。
  【解説】
 妻と伊吹島を観光。渡船を待つ間隣接した魚市場を見ていると、体長約六十センチの緑黒色の五位
鷺が、広々とした市場に飛来。空腹なのか、また一羽、二羽と飛んできました。


詠伊吹島(七絶 其二) 伊吹島を詠(えい)ず

  渡船伊吹丸

海道迎冬雪満天  海道(かいどう)冬を迎えて 雪 天に満(み)ち

叩窓波浪聖賢筵  窓を叩(たた)く波浪 聖賢(せいけん)の筵(えん)

交歡漁夫論鱗介  交(こもごも)歓ぶ漁夫 鱗介(りんかい)を論じ

倍逞高談揺渡船  倍(ますます)逞(たくま)しい高談 渡船を揺るがす

  【通解】
 定期便の伊吹航路に冬が訪れ、雪を含んだ雲が垂れこめ、ワンカップの酒や焼酎ビール等の缶が
転がり、波浪が窓を叩く渡船で、潮焼けした漁師達は賑やかに歓談しています。老練の漁師の漁場
での話は太く逞しく、魚達の習性や漁獲の時期など実践した人にしか知りえない驚嘆の事柄に、乗客
全員が耳を傾けています。大きな波が船窓を叩くと共に、老漁夫の豪快な談義は、船をも揺るがして
います。
  【解説】
 真っ黒に日焼けした老漁師の自信に満ちた漁場の話に若者達は、熱心に聞き入り、又長年の経験
には威厳と風格が感じられました。
 
 老漁夫の談義は尽きず冬の海(睦風)
 スクリューの空回(からま)ひなして怯えたる
        昭和の渡海船(とかい)は昔となりぬ(平岩マス子)


詠伊吹島(七絶 其三) 伊吹島を詠(えい)ず

  憩山頂        山頂に憩(いこ)う

雲峰鐡塔一天晴  雲峰(うんぽう)の鉄塔 一天(いってん)晴れ

内海風和草欲萌  内海風和(なごん)で 草萌えんと欲(ほっ)す

遊子心頭空翠滴  遊子の心頭(しんとう)に 空翠(くうすい)滴り

誰飛玉笛競倉庚  誰(た)が飛ばす玉笛 倉庚(そうこう)と競う

  【通解】
 晴れ渡った空に、雲を突くような大きな電波鉄塔が聳(そび)え今日の瀬戸内海は風も無く穏やかで
草の芽が萌えたち、絶好の季節となりました。観光客たちは滴るような緑の木々を満喫。ホーホケキョ
と飛ばす玉笛(ぎょくてき 口笛)はウグイスの声と競い合って、鶯の澄み切った、負けてはいない声
が聞こえてきます。
  【解説】
 伊吹島の高台に建設された携帯電話の巨大な鉄塔は燧灘を見下ろし扇の要のようなこの場所は観
音寺市や三豊市、四国中央市の地域全体を網羅しています。
 
 海底を真清水(ましみず)来たりて賑はへり
        伊吹島(いぶき)の昭和五十三年(平岩マス子)


詠伊吹島(七絶 其四) 伊吹島を詠(えい)ず

  西之堂        西之堂(にしのどう)

燧灘島嶼満潮香  燧灘(すいだん)の島嶼 潮香(ちょうこう)に満ち

碧海船團輝一場  碧海(へきかい)の船団 一場(いちじょう)に輝く

白帳西堂邀旭日  白帳の西堂(せいどう) 旭日を邀(むか)え

媼翁黙黙守家郷  媼翁(おうおう)黙々として 家郷(かきょう)を守る

  【通解】
 瀬戸内海燧灘に浮かぶ伊吹島の島々には、潮の香りが立ち込め、青い海原にはカタクチイワシを獲
る船団が、高速運搬船を従えて、漁場に群れをなして輝いています。島の中央では白い帷がたなび
き、島四国ミニ八十八番札所の結願「西の堂」には、今、朝日の輝きを迎えています。島に残るお年
寄り達は黙々として、境内と内陣を清めて、船団の安全と、島の反映を祈り、すばらしい歴史ある郷土
を守ってくれています。
  【解説】
 ボランティアガイドのKさんのガイドに敬服。一人で家を守るK氏の御母堂K媼の心のこもったお接待
に感激。「西の堂」と隣の「荒神様」を塵一つなく清掃、維持管理しているエネルギッシュなK翁に感
謝。


詠伊吹島(七絶 其五) 伊吹島を詠(えい)ず

  魚見山眺望       魚見山の眺望

暁霞映海雨初晴  暁霞(ぎょうか)海に映りて 雨初めて晴れ

逆浪魚鱗衆目驚  逆浪(げきろう)の魚鱗に 衆目驚く

血気漁歌呑冷氣  血気の漁歌は 冷気を呑み

大群獲盡静潮聲  大群獲り尽くして 潮声(ちょうせい)静かなり

  【通解】
 雨上がりの、朝焼けの燧灘に、ようやく晴れ間が見え、カタクチイワシの大群は海面を盛り上がら
せ、激しい波を起こしており、驚きの声が聞こえてきています。血気にはやる漁師達の掛け声は、大
漁旗をなびかせて去り、漁船団が引き上げた海面は、何事もなかったように、元の静けさを取り戻して
います。
  【解説】
 四国新聞おりーぶ通信員Kさんと、観音寺市エプロンガイドFさんの案内で、観音寺市観光協会企画
の「まち歩き」に参加。昔人の躍動が伝わってきました。現在は魚群探知機だが、昔はこの山からの
指令で魚を獲っていた、との事。

 探知機のなかりし昭和海の面に盛り上がりゐき鰯の群れは
 島浦の荒磯(ありそ)も埋めて岸高く煮干工場の屋根ならび立つ
                            (平岩 マス子)


詠伊吹島(七絶 其六) 伊吹島を詠(えい)ず

  イリコ酒       イリコ酒(ざけ)

雨餘漁火坐澄心  雨余(うよ)の漁火 坐(そぞろ)に心澄まわせば

入浦魚歌夜色深  浦に入る漁歌(ぎょか)に 夜色(やしょく)深し

君勧一盃君莫厭  君に勧む一杯 君厭(いと)う莫(なか)れ

焙鰮美酒輝黄金  鰮(いわし)を焙(あぶ)る美酒は 黄金に輝きたり

  【通解】
 雨あがりの沖の漁火に何となく、心を澄ませていると、夜の気配が深まる中、満載した運搬船の魚
歌が入り江にまで聞こえてきています。君に勧めている一杯の酒を厭わないでほしい。焙って金色に
輝いたイワシを浮かべたおいしいお酒が「是非君に味わってほしい」と言っているのだから。
  【解説】
 香川県観音寺市の川鶴酒造鰍ナは、伊吹島特産のイリコをターゲットに「伝統的寒造りで醸造した
焙りイリコ酒」を開発。摂氏六十五度から七十度の熱燗の酒に浮かべたイリコの芳しさや、うま味は最
高。また、焙ったイリコを肴にして呑むのも『ここに美酒あり 夕(せき)として飲まざるなし』と詠じた中
国の詩人陶淵明を彷彿とさせる讃岐の味か。


詠伊吹島(七絶 其七) 伊吹島を詠(えい)ず

  共同産院有感ユーカリ  共同産院ユーカリに感(かん)有り

窓紗深處暗香流  窓紗(そうしゃ)深き処 暗香(あんこう)流れ

産褥情濃満枕頭  産褥(さんじょく)情濃(こま)やかに 枕頭に満つ

襁褓占庭千萬朶  襁褓(きょうほ)庭を占めて 万朶(ばんだ)に干し

残檮樹影涙無収  檮(とう)を残す樹影に 涙収(おさ)まる無し

  【通解】
 窓に懸る薄絹のカーテンの奥深くまで空気を清浄化してくれるユーカリの香りが漂い、共同産室の
産婦達の、温かい心使いが部屋いっぱいに感じられています。産着やおしめをユーカリの枝に吊るし、
庭全体を占領していたユーカリは既に伐採され、大きな切り株だけが残っています。共に生活した人
達は思い出しては涙が止まりません。
  【解説】
 昭和四十五年まで約四百年間使用。その後産院は解体。ユーカリは大きくなり、根は石垣を破壊す
る恐れあり伐採。今は記念碑が建っている。平岩マス子さんはここで長男を出産。

 ユーカリの実のむらさきに掌を染めし母に押さるる夢のブランコ
 思い出に涙湧き出てつくるなく出部屋のあとの風に吹かるる
                           (平岩マス子)

                               (終)
 



P 伊吹島の思ひ出    平岩マス子   new
 ふる里は遠くにありて思うもの」詞(ことば)身に沁む老い深まりて

 源平の裔(すえ)か防人なりしかも大夕焼に染む伊吹島

 出部屋とは「男子禁制」掟とす島の産婦の城なる館

 その起源知らず一日慎しみて生活(くら)せし出部屋あゝありがたし

 生みし児を真先に出部屋入りなせる女ばかりの長き行列

 日の経ちし人を長とす不文律つたへ伝へて出部屋栄えき

 「丘」と呼ぶ住み家と別れ産婦らの生活(くら)すこの家ひと月早し

 嬰児(あかご)らの寝つきし後を集まりて身の上ばなしに夜を更かしたり

 「ここだけの話」は忘れ守られて互いに老いぬ出部屋友だち

 打ち明けて打ち明けられて涙せし嫁なる彼の日思ひ出尽きず

 子育てのあれこれ友に学びつつ暮らせし出部屋の日々温かく

 浜風の涼しき部屋にたどたどと三つ身四つ身を長に習ひき

 大漁旗を立てて戻るに産婦らの手を振る息吹島(いぶき)の出部屋の日暮れ

 箱膳を並べて惣菜分かち合ひ労わりくれき「在郷」の嫁を

 級友とひと味違う付き合ひを得て守りたり「不文の掟」

 忍び来て孫を抱くを見ぬふりも女の園のたのしき一つ

 父となり子の顔知らぬ一か月掟守るは切なかりしよ

 竈にて長の沸かせし湯をもらひ親子浴びしを今に忘れず

 「産人は清濁併す神」として世俗を離るるとも聞かされき

 孫を見に男子禁制犯ししも笑い話となりて伝わる

 胞衣(えな)などの納め処は神域と云はれて常に児らの影なし

 奢るなく産後を養う館なり誰が始めしや伊吹の島に

 孫自慢して賑はへり伊吹丸初着を背負ひて提げし祖父母ら

 羨(とも)しげに人ら言ひあう「観音寺の店を空っぽにするなよ」などと

 戻りたる児の名を呼びて出部屋飯戴く人ら家に溢れゐし

 我、他人(ひと)の隔てはあらず叱り誉め児を育てたり島の人らは

 世の中がどう変らうと続くべし伊吹の島の数ある掟

 呼び名をも忘れて背を叩き合ふ六十五年目の出部屋友だち

 島裏の荒磯(ありそ)も埋めて岸高く煮干工場の屋根ならび立つ

 探知機のなかりし昭和海の面に盛り上がりゐき鰯の群れは

 作るなき浜撫子の磯に咲くふる里伊吹の冬を訪ひたし

 さざ波の赤き帯なし石門に届く夕日をも一度見たし

 ちちははの何語るやと瞠(みは)りつつ耳すましをり遠き海鳴り

 掘り盗らるる円上島の菊化石嘆きし父母も杳くなりたり

 ドラマめく病の失せて人並みの暮らしたのしむ海を遠くに

 千万の産婦ら干しし襁褓(おむつ)ら浜風呼びしや大ユーカリは

 一本の巨ユーカリの庭占めて万国旗のごと襁褓揺らしき

 思ひ出て涙こみあぐユーカリも生活せし出部屋も無しとふ聞けば

 ユーカリの四十五尺の秀(ほ)に告げよ本土のニュース黒崎越えて

 ユーカリの巨枝に誰が架けたるやブランコ三つ四つ児らの揺らしき

 ユーカリの実のむらさきに掌を染めし母に押さるる夢のブランコ

 つづまりは勧善懲悪なる怪談(はなし)聞かせし祖父母の齢となりたり

 朝の潮を神に供ふる朔日、十五日朝礼までにと坂を走りき

 厄年の男ら海にて身を潔め裃つけて矢を放ちたり

 初孫の鯉の大きさ競ふがに棟より高く揚げし祖父母ら

 背丈より高き市松を背負はせて孫自慢せり島の祖父母ら

 葭の葉に米の粉だんご包みたる「粽」各家の軒に揺れたり

 時折に訪ねてみたし生まれ家の窓より見ゆる出部屋の跡を

 生まれし児の初着も鯉も何もかも父親持ちは「不文の掟」

 蚕豆(そらまめ)を炒りて米麦半々の「受け茶飯」食ぶ十五日目には

 出部屋にて学びし女の行き方のいくつ身につく山姥われに

 一年生となりし六月朝礼に橋田校長より聞く出部屋のはなし

 朝礼にて「天皇」「宮様」「知事」のこと日本の国の民とも知りぬ

 御下賜金の深き意味など知らぬまま最敬礼しぬ出部屋の門に

 高松宮の御下賜金なる碑(いしぶみ)にお礼を言ひてわれら遊びき

 ユーカリの実を掃き下校の子を待てる人に重ねて母を思ひき

 相撲取るもパッチンするも縄とびも産婦(はは)ら見ており暮れなづみつつ

 魔の怪談(はなし)さまざま遺る石門にわれら遊びき暮れ果つるまで

                                     (終)



O 打瀬船の想い出      合田隆行      
 打瀬船について

 我が家、宗五は歴代、打瀬網を家業とし、父、美代太、祖父、隆吉も打瀬乗りである。私が物心つい
たときは愛知県型の船だったが、終戦後しばらくしてその船の老朽化と、父が知人から頼まれて、エ
ンジンつきの和船型の打瀬船に乗り換えた。風上の漁場に行くのに、間切りを際限なく繰り返すことも
なくなり、風が弱いときは文字どおり機動力を発揮した。
 私が初めて愛知県型打瀬船に乗せてもらったのは、まだ小学校に入る前(昭和13−4年頃)だっ
た。まだ還暦前だった祖父が太い舵棒に手を添えて、舵の取り方を教えてくれた。前方、左右の他船
に注意するほか、帆がどのように風をとらえているかを見るのが大事なことで、効率よく風上に向かう
には、後ろの帆の上方が少し裏風を受けて、ちょっとだけひらひらするようにもっていくのがコツであ
る。そのほか、風上の波の立ち方、海の色の変わり具合、雲の見方など、ごく初歩的なことを教えてく
れた。そのころ体で覚えた操船技術は何年たっても忘れない。後年、神戸の須磨海岸で初めてヨット
に乗ったときも、なんでもなく簡単に操れた。頭で考えることはなにもない。波の状態、風の強弱による
わずかな波の色の変化にもすぐに手と体が反応する。
 打瀬船は横風や斜め後ろからの風で最もよく走る。真後ろの風のときは、前の帆と後ろの帆を右と
左にいっぱいに開いて走る。いわゆる観音開きだ。
 国民学校(昭和16年、小学校2年4月から改称)卒業後、観音寺の三豊中学校に入ったが、2年終
了とともに新制の伊吹中学校に転校した。10歳年長の叔父がソ連抑留から帰国しないため、打瀬船
に乗らざるを得なくなった。3年生の1学期は帰漁後2−3時限だけ授業を受け、2学期は「下行き」の
ため全休。3学期はかなりの出席ができ、なんとか新制中学校を卒業できた。今は平気だが若い時は
履歴書を書くのがとてもいやだった。
 出港のときは勇ましく、賑やかだ。港外まで櫓でこぎ出し、まず前の帆、次いで後ろの帆を上げる
が、前後2人ずつで、ほとんど同時に上げる。船頭は舵とり。だから乗組員は最低5人が必要。漁場に
行くまで網に重りの石をくくりつけ、すぐに入れられるよう、6〜7帖の網と綱をきちんと並べる。最先端
と最後尾の網を最初に入れ、次が2番目。7番めを引っ張る綱は前と後柱からYの字型に綱を張り出し
て入れる。最も活気のある時間だ。
打瀬船はたいていの船が網を7つ入れることができる大きさだった。ほんの数隻、2割かた小さい船が
いて、「小太郎(こたろう)」と言った。普通の船は「大太郎(おおたろう)」と呼ぶ。
 打瀬船が獲っていた主なものは、俗に「エビジャコ」と呼んでいた。底引き網なので、「コチ」「ハモ」
「カレイ」「クルマエビ」などで、春の魚島のころには、「マダイ」や「サワラ」が入ってくることがあり、「初
物じゃ、こんなもん売れるかい」と言って、船で食べてしまうのが習わしだった。
漁場は伊吹島の西方、江ノ島や沖ノ島の南側から東の海、股島までの一帯が主だった。その日の風
向きを予想し、潮の流れを計算して網を入れる。潮の流れは、月の満ち欠けと密接に関係し、毎日少
しずつ変わる。船頭の腕の見せ所である。父、美代太は潮目と風向きの予想に長けていて、宗五につ
いていけば間違いない、と言って数隻の船がいつも後をついてきていた。
 潮が東から西へ流れるときは、伊吹のはるか北の三崎半島の先端近くから網を入れ、江ノ島近くま
で。西から東のときは魚島や高井神島の南方まで行き、股島の辺りまで網を流していた。伊吹の南方
海面に網を入れることはなかった。観音寺打瀬の漁場と決められていたようだった。
 早朝に網を上げ、選別が終わった「エビジャコ」「コチ」「ハモ」「エソ」「カレイ」その他を大笊に入れ、
石油着火エンジンの伝馬舟で観音寺の魚市場に持って行く。義兄や叔父と2人。夏でも早朝の風は
冷やこい。腹も減っている。チャッチャッチャッ、と薄煙りをはくエンジンの上部、煙突の根っこ、消音器
が非常に熱くなっている。そこに「クルマエビ」を乗せ、塩水を手で少しかける。いい匂いに焼き上が
る。魚市場の売上伝票を見た親父が思ったより売上が少ない、と文句を言う。そりゃーそうだ、こっち
の腹に入ってしまっているんだから。が、本当のことはなんにも言えない。
 伝馬舟を送り出した船は伊吹の真浦港に帰り、帆柱に横桁を吊り網を干す。家への土産の魚を手に
上陸し、親父達は少しまどろむ。子供達は学校、小さい子供は親父のじゃまにならないように、母親が
背に負ぶって家事をする。2時ころから船に行き、干しあがった網を下ろし、破れたところを繕う。網は
海底にふれるところの目が粗く、入り口や、袋状の本体の目はこまかい。よく見て修理をしておかない
と、ジャコが逃げるし、そこからさらに大きく破れたりする。大事な仕事のひとつである。
 網のつくろい方は初心者には難しい。糸の太さ、目の大きさ(粗さ)によって、用具の大きさが違う。
元の目の大きさに合うようにつくろうのが難しい。
 綱の結び方は用途、場所によりさまざまである。切れた綱の繋ぎかたもいろいろな方法がある。藁
の綱、棕櫚縄、マニラロープ、それぞれにコツがある。
 港を出るときは勇ましい。活気がある。帆だけで漁場に行っていた頃の出航はかなり早かった。エン
ジン付になってからは少しゆっくり出てもいいはずなのに、エンジンなしの船に合わせて、たいてい、
早く出るのが常だった。夕方近くになると、風がうまい具合に吹いてきて、ゆっくり、ゆっくり進んでい
く。潮の流れ方向による助けもある。ちょうど日没ころに目当ての漁場に行きつくように、そこは長年の
経験がものをいう。網をすぐに入れられるように整え、錘の数十個の石を網の底側の綱に結びつける。
 海底にこすれてもほどけないよう、そして、翌朝網を上げてから解きやすいよう、伝統的な引きほどき
と言う結び方をする。網の一番入り口につける石が最も大きい。網を海底に密着させる役目をもってい
る。他の石は縦横6X8センチ、厚さ1センチほどで中央寄りに1センチほどの穴を開けてある。それに
綿ロープを通して結んだ約25センチの二股になっている。
 船の飯炊きは一番新しい乗り組み員の仕事である。そのころは、すべて薪だったので火加減が難し
い。薪の組み方もある。本来は他の網仕事をしながら、飯を炊かないといけないのだが、夏以外は火
のそばがよい。私は他の仕事はしないで、飯炊きの火加減に専念した。後年、義兄から隆行は飯炊
きがうまかった。毎日、同じように炊いていた。と誉めてくれたが、面映い心地がしたものだった。
 船の飯は初めの洗米は海水で行い、海水を切ってから真水を入れて炊く。少し塩味がする。それが
なんとも言えず、美味しい。懐かしい味である。
 「飯炊き3年」という言葉がある。また「飯炊きに勝つ船頭なし」もある。
 今は100%白米が当り前だが、敗戦直後から数年は20%も白米が入っていればいいほうだった。
陸(オカ)の家では、10%の白米、90%の押し麦がごく普通で半々の飯なんぞ、大ご馳走だった。米
の飯(コンメシ)が食いたい、が夢だった。
 半面、魚は新鮮で豊富にあったから、栄養のバランスはとれていたのだろう。事実、母が乳がんで
丸亀の軍医上がりの医者の手術を受けたとき「肉が固かった」と言ったらしい。昭和22年のことだっ
た。
 廃船となり、網元のブンネに譲られた愛知県型の打瀬船は柱、やりだしをはずし、隔壁などもすべて
取り払ったがらん洞状態で真浦港西波止場外側に繋がれ、「ヒヤシ」と言う緑白色の液体をいっぱい
入れていた。それは、イワシ網漁のあと、網の保護のためにその液体に浸けておくものだった。港を出
入りするたび、かつての我が家の船が見えるのがつらかった。
 休みは雨の日と凪が続くときだけ。雨が降りそうなときは前帆と艫の帆に細長い厚布カバーをしっか
りかけて、帆が濡れないようにしておく。網もみんなしまいこむ。 

 貝漕ぎ 
 春から秋の「エビジャコ」獲りは夜間操業だが、貝漕ぎは昼間操業である。燧灘の冬は西風が強く、
何日間も続く。その天候状態をねらって船を出す。貝漕ぎの漁具は横幅ひと尋ほどの木の枠の下部に
鉄の棒の先の爪が下向きになったもの、数十本がついている。漁具の錘は木の枠の左端と右端にダ
ルマ状の御影石を針金でしっかりと結びつけてあり、網本体はわりに小さい袋状のもの。それを20個
ほど船首側の「やりだし」から船尾側の「やりだし」まで引っ張れるようにしてある。船首側の帆「前帆」
を帆柱を中心として右舷から船首に回し固定する。風は左舷から真横に受けて、網を引張る。メーンロ
ープはマニラ麻だが、漁具に近い数尋は太い藁綱、重みで漁具の爪が海底に接しやすいように工夫
してある。
 貝漕ぎは非常にきつい作業だ。強い風の海上は予想以上に寒く、冷たい。獲れた魚類を船上で選
別するのは仕事ではあっても嫌なものだった。指が凍りつくような感じで、辛い作業である。まだ、「キ
ルティング」の上着が出回る前で、厚い布子(ヌノコ・ドンダ)を着ていた。もちろん、最近は当り前の市
販の「ホッカイロ」なんてのはない時代のことである。交代で船室に入り「火鉢の火」で指先を少し温め
るのが唯一の暖房だった。
貝漕ぎの時期が過ぎると「エビジャコ」獲りの春になる。夜間作業というのは嫌だったが、それでもホッ
とした。
この貝漕ぎを動力船用に開発したのが「伊勢桁(イセゲタ)」である。昭和20年代半ばに始まった、と
思う。動力船の「コギ」もそのころから大活躍をしていた。それによって漁獲量もどんどん減っていった。
「伊勢ゲタ」と愛知県型打瀬船。伊吹と伊勢湾の関係が感じられる。伊吹の人々がよく行っていた「お
伊勢参り」、なにか、つながりがあるのかも知れない。
 私は魚市場の仲買人が嫌いだ。こちらが寒いめをして、凍えながら獲ったものを適当な値段で競り
落とし、それが末端の人々の口に入るのはかなりの高い値段になっている。その差の大きさが許せな
かった。寒中でも、ぬくぬくと、ぶくぶく太っているのが、なんとも気にさわる。許せない。その感覚がそ
の後もずーっと続いている。
 本当に苦労している人が報われるべき、が根本の考え方である。
 
 宮の窪瀬戸
下行きの往復に常に通っていた。この瀬戸を帆船で間切りながら通過するには高度の技術を要する。
私が乗船中の3年半、舵棒は一度もにぎらせてもらえなかった。船頭の親父は復員した10歳年長の
叔父までしか握らせなかった。
 
 来島海峡
他の瀬戸に比べれば幅も広く、打瀬船でも通りやすそうに見えるが、絶対に通らなかった。親父に聞く
と、こわいと言う。今考えれば、打瀬船の大きな長い舵では来島海峡の複雑なきつい海流には耐えき
れないのかも知れない、と思う。それなのに小さな釣り舟なんか、すいすいと通っている。

 キジヤ台風 
昭和25年9月14日、下行きのとき、悪天候のため島影に避難していたが、もういいだろうと、出たとこ
ろ、風雨が非常に激しくなり、どうにもならなくなってきた。
錨を3丁おろし、ついには命綱まで繰り出したが、船は止まらず、風で傾いてくる。親父が
2本の帆柱のうち、後のを倒せと言って総員全力で傷をつけないように倒す。船の傾きはましになっ
た。結局は錨がシーアンカーとなって、船が流されるのを緩めたことになる。
日頃、神仏を拝んだことのない親父がこの夜は金毘羅さんにお祈りをしたという。夜明け前
一羽の小鳥が船首の「やりだし」に止まったのを目にした親父が「これで助かった」と思ったとのちに言
っていた。ラジオはなく、空の具合をみて判断するだけの当時の悲劇であった。
ついでに言うと、この年9月3日、ジェーン台風が紀伊半島に上陸。京阪神に大被害をもた
らした。伊吹島では風雨は強かったが被害はなかった。

 防府・三田尻 
夜が明け風も収まりかけたが、今どこにいるか分からない。とにかく風下に見えている港に
行こうと義兄がエンジンをかけた。幸いすぐかかり、一路その港へ。着いてみると三田尻だと言う。昨
夜この沖合にいたと言うとみんな驚いた。小休止のあと南方の長洲を目指して出発。   

 下行き、豊前長洲
 春、夏は伊吹島周辺で「エビジャコ」などを獲り、秋は「下行き」。大分県長洲町を根拠地として、周
防灘一帯で「エビジャコ」類を獲る。漁獲量は燧灘とは格段の差があり、一晩に100貫(375Kg)から
120貫ほども獲れた。昭和23年頃、私が実際に乗っていたときである。それも、その後は急激に獲
れなくなった。
 秋遅く、帰島するが、途中の島で薪を買って満載して帰り、乗り組みの家にも分けたりしていた。「砂
糖黍」や「ミカン」をたくさん買って帰ったこともある。夏みかんを食べ過ぎて、歯がきしきし言うようにな
って、酸っぱいものが嫌いになる原因になった。まるで「無法松の一生」の世界である。
 豊前長洲には伊吹の打瀬船を受け入れてくれる親方が数人いて、それぞれの船の毎年の居留先
が決まっていた。観音寺のような市場はなく、獲ったエビジャコ類を全部相応の代価で引き取ってくれ
た。親方は大きな釜を持っていて、すぐにエビジャコを茹で上げ、広い浜の筵に干していた。時化など
で休んだときは、船頭だけが親方の家で寝泊りした。一般の乗り組みは気の合った船と隣同士に係
留し、夜遅くまで話しに花を咲かせた。銭湯にも連れ立って行った。映画もよく観た。長洲は古い町の
ようで、遊郭が13軒あり、13軒長屋と言っていた。伊吹の人が経営している店が1軒あった。
 夕方の出漁は私にとって一番いやなことであった。周防灘をかなり北上し、姫島の灯台が真東に見
えるくらいまで出て行った。
 周防灘の海底は非常にゆるやかな斜面のようだった。長洲の港の川口は大潮のとき、ちょっと時間
を違えると、はるか向うまで干上がってしまい、伝馬船すら走れなくなる。
 
 周防灘の風向き いやなのは裏風・山風と海風
周防灘と豊前長洲の裏山は夕方と深夜は正反対の方向の風が吹く。夕方は海から山の方へ、深夜
になると山から海の方に風が変わって吹いてくる。その変わりめに風がぴたりと止む。それをいち早く
感じ取って「裏がくるぞ!」と船頭のオヤジが仮眠中の我々をたたき起こす。手早くしないと6本の網綱
が捩じれてしまう。必死だ。やがて山風がゆっくり吹き始め、いい風になる。また網を入れる。毎夜そ
の繰り返しだった。

 祝島
 下行きのとき、芸予諸島の間を通り、屋代島と平郡島の間を上関を北に見て過ぎ、防予諸島の西端
の島、祝島を過ぎると大きな伊予灘。それまではあちこちの島の景色を楽しんでいたのが、ただ広い
海だけになる。先方に姫島が見えるとやれやれの感じ。だが先の長洲まではまだ少しの辛抱。
船には丸い木製の羅針盤、東西南北の他、子、丑、寅、卯と十二支が入ったものが大事に神棚の横
においてあり、島影などで見当がつかないときに使っていた。ふだんは羅針盤は使わず、右側に見え
る島の重なりを見、その時、左側に見える島や山の具合で、自分の位置を確かめる。という方法をとっ
ていた。行きなれた海面はそれで十分だった。

 姫島 
夕方の出漁のとき、姫島灯台の灯りが真東に見えるのを目安にしていた。馬関(ばっかん・関門海峡)
と俗称される灯台の灯りを遥かに望む沖合にまで出て行ったこともあった。

 柳ヶ浦  
長洲は駅館川の東側、船は東側の川口に係留していた。西向う側が柳ヶ浦である。

 宇佐神宮
 柳ヶ浦の奥座敷のような所に全国各地の八幡神社の総本宮の宇佐神宮がある。
 
中津へ美空ひばりの映画を見に行く
時化で休みの日、義兄と中津まで映画を見に行った。美空ひばりのごく初期の「悲しき口笛」だったと
思う。
 
 船番(ふなばん)
打瀬船の漁が休みの夜は船番と言って、船主の子供(中学校卒くらい)が友人と船に寝泊ま
りに行く習慣があった。勝手に白米の飯を炊き、おかずは常備のデブラを焼いて味噌をつけて食い、あ
とはきれいに片づけておく。夜遅くまで雑談で過ごし、なんとも楽しいひとときである。私も友達3〜4
人でよく泊まった。こんなことで、みんなが飯炊きを覚える一面もあった。
船の布団は幅が狭い。せいぜい肩幅より少し広い程度。上布団はなく、厚手のドンダをかぶって寝
る。操業中も作業着が濡れたまま潜り込む。当然湿気ていただろうが、当時は気にすることもなかっ
た。乾したりしたことも少なかったように思う。

 デビラ乾し
デビラカレイとも言う打瀬網によく入ってくる大衆魚だ。売っても安いし食べると美味しいから大抵は船
で、10匹ほど口から鰓に藁を通して端は簡単に撚りをかけ2束セットで吊下げて乾す。ずらりと並んで
壮観だ。生乾きを焼いて食べるのも美味しい。十分乾燥させたものは船だけでなく、陸上の家でも珍
重される。この風習は島には今でも続いている。ただ保存方法が悪いと脂がのってまずくなる。最近
は冷凍庫保存が有効。昔はすぐに食べてしまうので脂がのったようなものは食べたことがなかった。
ほかにエソなども背開きにして船で干していた。飯が炊き終わったあとの残り火で焼いて食べていた
が、味噌をつけても醤油をかけても美味しく、生乾きもまた美味しかった。
今考えてみると、船の食事で一番不足しているのは野菜だった。まず船で食べたことがない。家に帰
ったとき、母が畑で作っているものを食べるだけだった。

 綱打ち(藁綱、棕櫚綱)
命綱や麻ロープは買うが、網を引く藁綱や棕櫚綱はそれぞれの家での自家製である。60歳を過ぎて
現役引退。船から下りた祖父が毎日土間に座り、湿らせた藁を打ち手でなっていた。かなりの量だ。
棕櫚は大きな半切り(たらいの大きいようなもの)に水を張りじっくり湿らせ、数本ずつ繊維を抜いて藁
縄同様手でなっていた。双方とも均等な太さになわなければならない。簡単なことではない。
十分な量が溜まり、漁が休みのとき、乗組み員総出で綱打ちをする。100メートルほどのほぼ水平の
平地が必要だ。小学校の前が一番よい。もう一か所はお宮さんの裏の北側、西の堂(おこじ)と西部
太鼓台蔵のある西側の道路だ。
綱撚りの機械を一式借りてきて一日がかりの大仕事になる。手でなった縄3本を双方のフックにかけ、
双方とも右回しにし、よりをかけていく。十分撚りがかっかったとき、木製で持ち手がついた撚り器を一
方にはめる。端の3本は1本に纏めてある。撚りの回しを続けつつ、撚り器をゆっくり前進させる。最低
4人の人手が必要だ。それを何度も繰り返す。打瀬船の藁綱、棕櫚綱には乗組み員の思いがこもって
いる。

 愛知県型打瀬船の船首はV字型
波が静かな内海などで主に使われる高速巡視艇の船首側船底はV字型になっていて、波によく乗り、
海面を滑るような高速走航が可能である。愛知県型打瀬船の船首側船底も波切りと波乗りがとてもよ
い構造になっている。
 和船造りの船首船底とは全く違うが欠点もある。波の穏やかな時はよいが風が強い日に風上に向
かって進むとピッチング(船の上下運動)で波を叩くようになり、スピードが出にくい。和船の方がまだ
ましだ。愛知県型と和戦型の両方に乗っての実感である。

 打瀬船の帆は片帆
 帆走用の柱は2本、船首側の帆は柱の左舷側に、艫側の帆は柱の右舷側に沿っていて、帆の上下
中間に横向き5本の竹の支えがあり、握りこぶし状の木製スライダーをロープに通して柱に回し、帆の
上げ下ろしをスムーズにするとともに、帆に受けた力を柱に伝える重要な役目をしている。
 漁場に行くと船尾側に小柱を主帆の邪魔にならない位置に斜めに立てる。船首側の小柱は常時立
てた状態である。
 船首側と艫側に「やりだし」をくりだす。「やりだし」は先端に滑車をつけ、網綱を引くためのもので、打
瀬網を船首側・艫側へより長く有効に展開させるためにある。大型船で6帖〜7帖、小型船で5帖の網
を操作する。
観音寺の打瀬船は愛知県型で、前柱1本の「コタロウ」だった。そのうえ、昭和25年頃はみんな焼玉
エンジンの動力船で、帆走する船は1隻もなかった。前柱は網を吊上げて乾かすためのもので、すべ
て「こぎ船」だった。伊吹の「オオタロウ」のようなやりだしではなく、漁場では左舷、右舷に90度回せる
形で、網は3帖引きだったと思う。やりだしは漁場以外では舳先側に纏めていた。観音寺の船の漁場
は伊吹島の南側一面で股島の方までくることはなかった。
伊吹の打瀬船の漁場は燧灘のうち、伊吹島南面以外のすべてで、四坂島からその北側の魚島3島に
かけてのあたりから伊吹島北方の三崎半島にいたる備後灘の南半分にという広大なものだった。
漁場につくと、前の帆を右舷側から船首へぐるりと180度転回させる。前帆と艫の帆を上げて船を横向
きに流しながら前後両先端の網を入れ、2番目、3番目と入れていく。風の具合によって、前の小柱、
艫の小柱にも帆を張る。さらに前後両柱間に中帆と言う大きな帆を張る。全部で5枚。日が沈みかけ
た穏やかな海に総帆を掲げた何隻もの打瀬船。絵になる見事な景色だ。
風がきつくなると、まず中帆を下ろす。さらに強くなれば前後の小帆。さらにきつくなると前帆、艫帆の
5段になったのを1段ずつ下ろしていく。下の2段くらいで操業することが何度もあったが波も高くけっこ
うきつい。でも網綱を引いているので、ふつうの航海より船の揺れは少ない。作業はすべて左舷側で
行う。
船頭一人が艫の方へ見張りに座り、あとの乗組み員は仮眠する。風の変化により、帆の上げ下げの
ため、いつ起こされるか分からない。船頭はただ座っているだけではない。潮の具合、風の向きをみな
がら艫帆の綱を少し緩めたり、絞めたり、中央の網綱の位置を横にずらしたりしながら船の流れ方向を
調整する。漁場を選ぶための船頭の大事な仕事だ。

 打瀬船の配置
 最船尾は「ヒヤマ・火屋間」といい、カマドがある。次がみんなが寝る部屋で、命綱という最後の頼り
ともいうべきマニラ麻の太いロープを丸く置いてある。右舷側に引き戸があって、艫側の小帆やふと
ん、ドンダなどをしまう。この部屋の中央前寄りに後柱が立っていて、その横に小さな神棚があり、金
毘羅さんを祭っている。
 後柱の前は網や中帆をしまうところ。かなり広い。その前が生け間で、常時は水栓という長四角の
木栓をしてある。漁で値のはる魚が入ってくると、翌朝、市場の時間まで活かしておくため、水栓を抜
いて海水を入れる。6個くらいの穴があり、船の揺れで海水が適当に攪拌されているようだった。春の
魚島時の桜鯛などを入れていた。伝馬船で出荷する前にシメテ鮮度を保たせる。ほかにハモなども同
様だった。ハモの歯は鋭い。首根っこをつかみ頭部をシメルが、慣れるまでちょっと怖い。
 その前が予備の錨や綱を入れたり、前の小帆を格納する所。ここの前端に「おもて柱」が立ってい
る。さらに前、船首の間は幅も狭く、舳先、船底側はすぼまっている。網の石などを入れていた。トイレ
はない。船尾の方で船を汚さないように注意しながら行う。今、鞆の浦の浦観光打瀬船についている
のは観光客用の特別なものだ。
それぞれの間は帆や網などを直接置くのではなく、水板(すいた)が敷いてある。また、それぞれの間
の上には「サブタ」が被せてあり、横殴りの雨風にも中に海水などは入らない。
 2本の柱の中間くらいに木製の大きな「ロクロ」がある。普段は使わないが、下行きのとき、エビジャ
コが一晩に100貫もとれていたころ、人力だけでは綱を引き寄せられないときに使った。綱を3〜4回ろ
くろに巻きつけ、「ロクロ」は上部に樫の棒を2本差し込み2人が回し、一人が綱を手繰り込む。 網が
近くにくれば何人かで引っ張りあげた。
 漁が終わり港に帰るとまず網を干す。前の柱、艫の柱に全部の網を吊り下げる。壮観だ。それから
各間の「アカ汲み」、スッポンという竹筒を斜めに切り、先端を薄くしたものを使う。船大工の良し悪しに
よって、「アカ水」の入り方は全然違う。打瀬船ではないが、親戚が持っていた水船を改造した木造貨
物船は全然「アカ水」が入らなかったと聞いている。 

 帆を縫う
打瀬船の帆はどこの船もみな手縫い手作りである。帆布は購入するが、冬の何日もの休みの日に座
敷いっぱいに帆布を広げ、太い3角形の帆縫い針で塗っていく。右手親指に縫い針押し出し用の治具
をはめている。帆柱近辺の緩やかなたるみの出し方は縫っている親父の手加減ひとつだ。これが風を
どうとらえるか。それぞれの船頭達の腕の見せ所である。ただ縫うだけではない。上下5段の竹竿を
結ぶ位置に目空きポンチをつけ、周囲には細いロープをしっかり縫いつける。5枚の帆が痛み、破れが
ひどくなると何年かごとに作りかえる。だから小さいときから何度も見ている。この帆縫い、親父はだれ
にも手出しをさせなかった。

 網を染める
打瀬船の網はもともとは白い木綿。それを海水に強くするため、カワ染めをする。なんの木かは聞いて
いないが、赤っ茶けた分厚い大きな木の皮を購入していた。それを家の五右衛門風呂で煮出して大
量のアカ汁を作り、直径130センチほどの大きな半切り桶に入れ、網を染める。
直後の網は鮮やかな色合いをしていた。打瀬船を持つ家にはどこにもこの大きな半切り桶があった。
網は何ヶ月か毎に染めていた。
網は染める前にきちんと仕上げてある。上部一円には浮き用の「アバ」と呼ぶ桐の木を半分より少し
薄いくらいにしたものを、10数個取り付けてあり、染めるときも干すときもそのままである。

 船たで
木造船は2か月毎くらいに船底を焼いてフナムシを殺し、乾燥させペンキを塗り替える大仕事が必要
だった。大潮の昼間、真浦港の東側で行う。準備は周りの小船には横の方へ寄ってもらい、船底に丸
太のでっかいのを「おもて」と「とも」の2か所にはめるのだが、一人がロープの引き役で、もう一人は丸
太を足を使い力一杯けり込むように船底に潜らせる。と同時に一人がロープを引く。タイミングが合わ
ないと何度もやりなおす。そして干潮を待つ。船底を焼くのは麦藁(みんがら)を家から大量に背負って
下ろしてきておく。船尾側から始める。竹竿を使って奥の方まで火が回るように乗組み全員で行う。終
われば祈りの意味で水竿(みざお・竹竿)を持って船尾側に立ち左舷側と右舷側、最後に船尾をそれ
ぞれ2〜3回ずつたたいて終了。そのあと船底に黒ペンキを念入りに塗る。
あとは待ち望んでいた「ぼたもち」作り。とにかく船で作るのは大きい。あんこは家で炊いてきている
が、船で白米を炊き、握り拳大のを沢山作る。これが楽しみだった。(終戦直前と戦後しばらくは砂糖
が手に入らず塩味の時期があった。)やがて潮が満ちてきて丸太をはずす、これは簡単だ。

 焼玉エンジン
昭和20年代の小型漁船は焼玉エンジンが主流だった。エンジン上部に深い編笠をかぶせた焼玉があ
る。その編笠中央に燃料噴射器がついていて、燃料噴射器にはノズルとスピンドルがあり、手で燃料
の噴射操作をする。出港の前に石油バーナーで焼玉を熱する。十分熱したあと、燃料噴射器に2〜3
回重油燃料を送り、エンジンのフライホイールを手で勢いよく向う側、手前側と大きく振る。この振りで
シリンダー内は圧縮され、噴射した重油が焼玉で燃焼して始動する。あとは燃料噴射器のハンドルと
燃料調節器操作で回転の調整を行う。下手にし、燃料を余分に噴射し過ぎると急回転を起こして大き
な音がする。スクリューとはクラッチで着脱させる。
ノズルとスピンドルの磨り合わせ調整で、エンジンの回転が良くなったり悪くなったりする。帰港後の
休み時間の楽しみのひとつである。知り合いの人からの助言を受けていろいろやった。
漁が休みの日にはエンジンをばらして、ピストンやシリンダーの掃除、クランクシャフトのメタルの摩耗
具合の点検、削り直しなどを行う。ばらさないのは注油器だけ。とにかく、焼玉エンジンは面白い。じっ
くり触ったお陰で後年神戸に出てきて、ダイハツディーゼルの代理店の営業マンとなったとき、ジーゼ
ルエンジンのことがよくわかり、すんなり入りこめた。
当時のエンジンの規制はシンダーの直径だけで、あとはお構いなし。シリンダーを長くすれば、回転は
落ちるが力は強くなる。製造所の考え次第だ。観音寺にも焼玉エンジンの製造所があった。丸亀や高
松にも。

 打瀬船造りは木挽きから始まる
真浦の東端近くに私の祖母の実家があり家業は船大工、ワリワ(割岩)の大工さんと言っていた。そこ
で造る愛知県型打瀬船はスピードがよく出ると評判だった。小さいときからよく遊びに行き、船造りをじ
っくり見ている。
杉板は製材したものを購入するのではなく、地方(じかた)からきてもらった専門の人が大きな丸太を
横にして、幅の広い木挽き鋸で何日もかけ、ゆっくり、ゆっくりと何本もの丸太を挽き割っていた。幼心
になんであんなにゆっくり挽いているのか不思議だった。
船を造るのに設計図はない。あるのは側板と船底板の角度を要所、要所で確認するための薄い木造
板の「当て木組み合わせ」が数十枚。板と板の接合には「船釘(ふなくぎ)」を使う。ノミでえぐった穴に
「船釘」を打ち、その上に埋め木をきっちり嵌めこみ、水が「船釘」部分に侵入しないようにしてある。
「船釘」は幅の狭い四角長方形、四角の片鍔で真直ぐではなく、上部が少し曲がっているので、うまく
入る。「船釘」を打ち込む位置に少し穴を開けておく専門道具もある。それにノミとかんな、大事な道具
だ。ノミとかんながきちんと研げて一人前。鋸の目立ても各自で行う。伊吹島には船大工が数ヵ所あっ
た。

 金毘羅参りと奥の院参り
新造船を造ったときは一族で金毘羅参りをする習わしがあった。そして、「ミタマ(御霊)」を授けてもら
う。その「ミタマ」を船内の神棚に大切に祭る。
奥の院は伊吹島の南方、川の江の山奥にある四国88か所の63番札所三角寺の奥の院、仙龍寺(別
格13番)である。夏の凪が続く日の早朝から一族郎党が打瀬船に乗り込み、電気着火の伝馬船を右
舷につけてゆっくり、ゆっくりと川之江港をめざす。あとはすべて徒歩。私は国民学校低学年のときに
行った覚えがある。町中を過ぎ、山に入り峠を越える。非常に深い木立が印象的だった。お寺に一泊
して翌日また歩いて帰る。

 昭和26年の台風被害
この年は台風が多かった。なかでも伊吹島の真浦の網元のガンギが全部総崩れになり、真浦港も大
きな被害を受けた。このとき、我が家の打瀬船、惣栄丸は大破し、使用不可能となった。
そのため、私もいつまでも遊んでいるわけにもいかず、親父が北海道へのサバ巾着行きを頼んでき
た。もともと船酔いをするほうだし、このままではと、島を出ることを決断した。国民学校5・6年の受持
ちだった先生に相談に行くと賛成してくれ、旅費を貸してくれた。その直後、普段着のまま、事前に手
紙で知らせておいた神戸の親戚を頼って出た。10月22日神戸着。 (終)



N 日の出館 久保カズ子
年が明け寒梅が咲き、紅白の梅の蕾がふくらみ始める頃、テレビ、新聞紙上に花を添えるのは恒例
「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の話題。
天保期からの優美な姿を琴平象頭山のふもとに現し最古の歌舞伎劇場「旧金毘羅大芝居」(通称
丸座)のこけら落としは昭和60年4月27日。毎年 春琴平の町は「お練り」があり、昔ながらの劇場で
歌舞伎歌が行なわれ、たくさんの人で賑わう。 大芝居 幟の上の 春鴉 カズ子
金丸座を見学する。見るものすべてが別世界「わあ、立派な歌舞伎の劇場だなあ」と思いつつ、次々
見て廻り最後に花道の下へ降りてゆく。回転を円滑にするよう木製の台車があり、奈落で人力で廻す
機構になっている。「ロクロ」その木のぬくみを手にした時、私は少女時代友人と入った伊吹の「日の
出館」を思い出していた。金丸座と同じような仕掛の「ロクロ」、少し小形だが伊吹島にもあったのを懐
かしく、昨日のように思い浮かんでくる。花道の下は暗く両側は石積、とんとんと敷板を渡り奥へ入る
と「ロクロ」があり「これを廻せば舞台が廻るんだよ」友は親戚が興業関係者なので、「日の出館」のこ
とは知り尽くしていた。「廻そ、まわそう」と何人かで廻した「ロクロ」のぬくみは忘れられない。
「大正七年一月起 会場建設費収支明細簿伊吹青年会」という資料がある。島の青年層が発起し、浄
財を募り、夜なべで草履を作り松葉事業の一部を繰り入れ一致団結して完成したことが書かれてい
る。瀬戸内海の小島に立派な劇場(島唯一の集会場、常小屋、青年クラブ、日の出館)を作った先人
に頭が下がる。芝居、浪曲はもとより映画も上映された。戦後は島に映画館が2軒建った。島は活気
に満ち、鰯もよく獲れ、島外の若衆も網子として大勢働きにきていた。テレビが一般家庭に普及するに
つれて、島民も京阪神、大分へと移住していった。時代の波に逆らえず、テレビの時代となってゆく。
「日の出館」跡地に公民館が建設されたのは、昭和41年だった。
大正7年完成、その後の使用明細書、建築設計図を残すのみとなった「日の出館」主人曰く。愛媛県
内子の芝居小屋「内子座」より伊吹「日の出館」の廻り舞台装置、花道、潜り等は大きかった。

伊吹島にあった「日の出館」について書かれた文章です。娯楽の少ない島にとって「日の出館」の果
たした役割は大きいものがあります。宮の広庭で小屋掛けしていた興業も雨の心配もない、大きな会
場で見ることができるようになりました。年寄りは「常小屋」と「日の出館」を呼んでいました。会場建設
に島の若者が積極的に関わっています。松葉事業という耳慣れないことばが出てきましたが、魚が寄
ってくるように植林をして、毎年 落ち葉を集め、枝うちをして売却してその一部を会場建設にしていま
す。「日の出館」建設に全島民が協力しています。青年の熱い思いが時代を切り開いて行ってます。
琴平町のHPより金毘羅大芝居を紹介します。http://www.town.kotohira.kagawa.jp/kabuki/index_f.
html



M 島の盆 久保カズ子
都会で住む人が多くなり、島の人口も減り、伊吹に帰って1ケ月間も灯籠を吊る人が少なくなった。
7月29日灯籠上げ、住職さんが来て経を唱えてくれる。その時 灯籠の裾を巻いていたのをのばし、
灯りをつける。
8月29日を灯籠下ろしといって、1ケ月の間に線香、果物、お菓子、飲物といろいろお供えに来て、お
参りしてくれた家々へ、とりつけ(米の粉の団子に餡をまぶしたもの)を配る。屋号と名前を書いたパッ
クに5ケづづ入れ輪ゴムをして配る。その朝 灯籠はしばらく椅子に休ませておく。一番先のとりつけ
もりもん(米の粉の団子)等仏壇に供え、とりつけも配り終えた頃、灯籠はお寺へ持ち寄る。平成2年
までは、お墓へ持って行っていたが、3年からお寺で住職さんがお経を上げ、寺総代の方達によって
燃やしている。
お寺から帰り、花、ローソク、線香、花いれ(米)、水などを持ってお墓参り。
お盆の行事、10日は朝早くからお墓を洗い、花、水を取り替える。10日に墓参りすると1年分お参り
した効果があると、昔の人はよく言っていた。13日 夕方迎え火を、門でたき、14日、15日は、親族
が集まってお墓の前で松を焚く。光明真言を唱えながら、1年目はふたつ読みの48本、2年目は88
本、3年目は108本焚く。
14日は早目に、15日は昼食を終え、ゆっくりと焚く、と言っても、お盆の一番暑い時、誰が何のため
に決めた事なのか、私達にはわからないが、明治生まれの人達から続いているように思う。その前か
らだろうか。
灯籠は3年間 新しいのを吊り 亡き人を偲ぶ。



L 忠海の御客帳・御客船帳 三好 兼光
広島県竹原市忠海(ただのうみ)には 江戸時代文化文政期(1804年)から明治10年頃までの70
年間の忠海港に寄港した得意先の船頭名 船名 積荷が廻船問屋の記録として残っています。その中
に 伊吹島の船頭70名の名も有ります。伊吹島の海運資料として貴重と思います。燧灘の東西の交
は 現在以上に あったことを教えてくれてます。広島県立文書館で調べていただきました。

羽白家「御客帳」

伊ぶき

伊兵衛殿 伊左衛門殿 甚右衛門殿 原六殿 宗次郎殿 四郎兵衛殿 与三次殿 善蔵殿 権平殿
清兵衛 五一右衛門殿 新左衛門殿 善九郎殿 源蔵殿 貞平殿 六郎左衛門殿 儀兵衛殿 定兵衛
殿 次郎兵衛殿 喜七殿 松兵衛殿 仁左衛門殿 儀兵殿 兵助殿 藤右衛門殿 九十郎殿 七兵衛
殿 平三郎殿 善太郎殿 甚八殿 伊三郎殿 三郎兵衛殿 勘三郎殿 宗吉殿 作兵衛殿 平吉殿
喜代助殿 平之丞殿 長五郎殿 作平次殿 新蔵殿 俵蔵殿 喜四郎殿 幸吉殿 徳左衛門殿 弥兵
衛殿 定次郎殿 弥三八殿 利七殿 忠四郎殿 佐兵衛殿 源四郎殿 勘平殿 吉蔵殿 吉左衛門
殿 半助殿 甚太郎殿 三右衛門殿 常次郎殿 万三郎殿 定兵衛殿 常七殿 長吉殿 甚四郎殿
与次兵衛殿 清兵衛殿 孫助殿 幸次郎殿 与八郎殿
文政五午極月五日
茶御売 信蔵殿

荒木家「御客船帳」

讃岐附込
(前略)
(明治十一年)
とら一月廿九日 伊吹
一 長栄丸 吉田卯八様
みかん御うり
(中略)
(明治十二年)
卯一月十三日 伊吹
一 宗栄丸 郷田惣助様
みかん御うり

同所
一 三次藤衛門様
御同船

江戸末期から明治にかけての伊吹島の海運に従事した人達の名前が広島県忠海に記録として残っ
ていました。5,6代前の人です。私ところの先祖だという人がいましたら連絡下さい。何人かはわかり
ました。よろしくお願いします。また 観音寺335 室本61 和田浜40 姫浜107 箕浦20の廻船数が
羽白家の御客帳に記載されています。燧灘の東西の交流が今以上にあったこと物語っています。



K 港祭り 久保 カズ子
島の玄関 真浦港を見下ろし、出船入船の安全を見守って下さる明神社がある。その境内に木目の
美しい形もすばらしい恵比寿さんがまつられている。
以前はお半田という地名の所にまつられていて、正月等潮汲みに来た島の人達は必ず恵比寿さんに
浄め潮をして家路についていた。
お半田えびす、亀井えびす、西浦えびす、大浦えびす、膳棚えびす、股島えびす、円上(まるがめ)え
びす等、七浦えびすの沖の豊漁を願う港祭りは、伊吹漁業協同組合主催で行われる。今年は大野原
町の大黒さんが運ばれ、150年ぶりの対面だ。「カズ子 写真撮ってくれ」と久保先生に頼まれる。
7月23日、港祭りの幟、網元18統の幟が立ち、提灯も吊られ浜は賑やか。大野原からは 朝の定期
船で11名の方が、お見えになった。大黒さんとあと9名の方は漁会の船で迎えに行っているそうだ。
10時前大黒さんを積んだ船が入港、関係者が揃い社では厳かに神事が始まる。
舳先に青い笹竹を立て、船いっぱいに大漁旗を飾り、出番を待っているのは2統の網元の船。カメラを
向けて写真を撮っていると、思いがけなく、親戚の人がいて「姉さん この船に乗って三島を廻ったら」と
言ってくれたので その言葉に甘えて船の人となる。
神事を終え、恵比寿さん大黒さんが積まれる。凄い人だかり。やがて舫が離される。2統の船に続い
て 漕ぎ組合の船、小漁師組合の船、2統の手船、漕出す船にも順位がある様子。
波止を出ると恵比寿さんをお祀りしている所で、昔から よべす櫓を押すと言って、左回りに3回大きく
沖を廻る。汽笛を鳴らしつつ燧灘(ひうちなだ)に大漁旗の花が咲いたよう。西浦でも廻って、股島へ向
かう。青い空 青い海原。何とも言えなく快適、乗船させてもらえてよかった。心うきうき。
股島入港。明神社、金刀比羅様をお祀りした社は離れた所にある。終戦後は人も住み、鰯のいり納
屋もあったが 今は無人島になっている。
神官に続き役員、大野原から見えた人達も殆ど上陸。子供達はきれいな海水に戯れ泳いでいる。伊
吹町股島、円上島、股島だけが砂場があるので、これからキャンプに大勢くるそうだ。皆上陸した親船
の艫(とも)には、恵比寿さんと大黒さんが仲良く笑顔で並んでいる。この時とばかり、カメラのシャッタ
ーを押す。
お参りをすませた人達が二隻の船で帰って、もとの賑やかさを取り戻す。果物 飲物が配られ、円上
島に向かって出港、股島裏手の松は絵のように美しい。風を切って進む船内で昼食をご馳走になる。
本当においしい有り難い昼餉でした。
円上島にも上陸、お参りをする人、泳ぐ児等、潮は満ちて心地よさそう。円上島は松喰い虫にやられ
松は立ち枯れて 昔の面影はなく淋しい。裏の穴口菊花石の方を廻って、伊吹への帰路、伊吹名所の
石門を眺める。それは見事だ。波切り不動の石塔 篭り堂が見える。北浦えびすに三回廻り、膳棚え
びすで三回廻り、今日一日港祭りの行事が無事終わる。
大黒さんは漁会の船で送ったとか。楽しい一日でした。

神酒まわす 恵比寿大黒 祭船 カズ子

明神祭りについて書いてある文章をお借りしました。恵比寿信仰がなくならない限り続く海の祭り
と思います。大漁旗のはためく音 青い瀬戸内海の真夏の風、 爽快さが伝わってきます。ありがとうご
ざいました。



J 伊吹島 島四国 巡路について 三好 一義
昔の伊吹島 島四国の巡路について書いてみます。北浦の港の上丹屋の岩田正男さん宅の近くに大
きな泉があってその側に石仏があったのを道路を広げる為に石仏を岩田さん宅の側に移しておまつり
しているようです。石仏は島四国一番(霊山寺)ですが、皆さん知らない人が多く素通りしているようで
す。
現在は、北浦港より真浦港までの海岸線は、網元の家が建ち並び道路が良くなり車も走るほどにな
りました。しかし、昔は、潮が満ちると通行出来ない個所がありましたので巡路みちも山を切り開いて
道路をつくり山道のところどころに石仏を置いていました。山道の最後はスバナ(地名 州端 村浜
あった所)の大師堂に降りていたようです。山道には大きな桜の木が何本かありました。桜の花が咲
いた時に出会った時にはそれはきれいでした。長い年月山道も風雨にさらされ、破損もひどくなり、人
が歩くのが危険な状態なので各網元に頼んで石仏をおまつりしてもらっているので島四国巡りも年毎
に盛大になり、島民だけでなく島外よりもたくさんの人が訪れています。
石仏が山道より海岸線の各網元の処におまつりされるようになったのはいつ頃かはっきりわかりませ
んがもう何十年も昔になると思います。
また、西浦(ニシラ)の方にも石仏がありますが、知らない人が多く、道が悪いので行かないようで
す。西浦の降り下がりの処に三体あります。ゴンタの畑の隅、オモヤの三好八十徳宅の畑の隅、ツク
ダの泉の側に石仏があります。
先人達の努力により今日の島四国の隆盛があります。のどかな春の一日伊吹島の島四国巡りで先
人達の願い 祈りのことに思いをはせるのも意味あることと思います。



I 伊吹島への来島者 久保 カズ子
久保せん治郎先生の書によると、日本語学界関係者の多くの方々がお見えになっている。方言伊吹
島アクセント 国語研究22号 昭和41年妹尾修子氏卒業論文で取上げ、 昭和40年41年来島、 伊
吹中学校生徒7人を調査発表これが最初の発見。
神戸大学 和田実教授 第一次アクセントの発見 伊吹島明治大正生まれ5人中学生7人を調査し確
認 方言教育50号 和田実氏 二拍名詞5つの類を5つに言い分けるアクセント第54回研究発表報
告は昭和41年
山口幸洋 日本方言研究発表会 発表原稿集12号46年 伊吹島二拍名詞アクセントについて
金田一春彦氏 『 国語アクセントの史的研究原理と方法』 33 38 39 151頁 岩波講座 日本語
11方言 52年『アクセントの分布変遷』
和田実氏(神戸大学)によると 3いろ 4いろに言いわけるところがあるが 伊吹島では5つの流暢をみ
な言い分けるこれは極めて珍しい例であると言われている。
金田一春彦先生 58年学生8名を伴い来島 その時2度目の来島者秋永一枝先生(当時早大文芸
部教授)15年程前にお会いした人家を尋ねたが他界されていたと言う
上野善道先生(東大)58年7月22日。10月、11月の調査の際 服部四郎先生1日同席。11月3
日文化勲章受賞されたばかり75歳、伊吹の土を踏んでみたかったと。あれからもう10年。59年4月
5月2ヶ月で計20日余りの宿泊滞在で調査された。
59年10月19日 日本方言研究会第39回研究発表 佐藤栄作氏、母親は伊吹出身、父親三野町
出身 学生時代から何回も来島調査 発表後神戸短大講師に。(現在 愛媛大学教授)
『日本学士院紀要』 第40巻第2号別刷 60年2月28日発行 香川県伊吹島方言のアクセント 上
野善道 立派な本が伊吹へ9冊届いた。
その後 服部四郎先生の考案で61年4月 代も平成と変わり 元年11月 2年4月類聚名義抄調査
の為に来島 5年8月類聚名義抄 600頁を終え相手役の主人も溜息まじりの喜び 又12月資料校
正の為来島予定 トマス・ロブ先生(京都産業大学) ハワイ出身 伊吹島における大人と子供のアク
セントの相違他 第1回来島 54年1月23日 合田ソデさんと中学生対象そのまとめ 平成2年11月
3日 今回は三好クニさん対象 日本語が流暢で伊吹の民俗にも感心が強い 余談香川民俗学会編
集の『伊吹の民俗』を合田計江(ソデさんの娘)が、トーマスさんに送る 其の影響か『伊吹島の民俗』
アメリカの大学からも注文があったという。
外人研究者、上野先生の著書によると、直接調査によるものか未詳ながら
マーテイン氏の論文中にも言及があると変更を掲示してあった。
中井幸比古氏『伊吹民俗』香川民俗学会稿 平成3年12月1日発行 235〜241頁にアクセント研
究のご紹介、伊吹島のアクセントは重要無形文化財!!金田一晴彦氏のことば 。 妹尾修子氏の発
見から説きはじめ 平安末期の京都のアクセントにそっくり。映画や芝居でときどき平安時代の公家さ
んのせりふを現代の京都弁でやっているが、伊吹弁の方がふさわしいと説く。
4年12月12日 東大生一名来島 澤田雅司
5年9月日本女子大学文学部 英文学科専任講師松森晶子氏来島
久保先生は伊吹島の生字引 『伊吹島の民俗』 『伊吹小学校100周年』の本 伊吹資料館設立に
と尽力の限りをつくされている方、先生の健康を念じつつ。
(観音寺市伊吹町在住)

伊吹島のアクセント調査のため来島された先生方のことを書かれています。今年 、平成14年1月に
亡くなられた久保先生の資料と共にに、伊吹島のアクセント研究史がわかります。今も上野先生との
19年間の調査 を継続されています。今後もお元気で島のことばをはじめ、民俗について教えて下さ
い。ありがとうございました。

参考文献として 伊吹島のことばに関しての研究論文を収めた 『日本列島方言叢書22 四国方言考
A 香川県・愛媛県』 ゆまに書房 があります。
『観音寺市誌』 、香川民俗学会『伊吹島の民俗』にも詳しく記載されてます。
HPでは、 NHKの日本のことば 香川県の中に伊吹島の島ことばとして掲載されています。 日本の
ことば http://www.nhk.or.jp/kotoba/

私は島のアクセントについてあまり詳しくありません。伊吹島で私のことを、『うら』といいます。私達の
ことを『うらら』といいます。このようなことばが他の地域で使われているところをご存知の方 教えて下
さい。
伊吹島になぜ、このようなアクセントが残ったのでしょうか。平安時代石清水八幡の庄園になっていま
すが、ずーっと島の住民が安心して暮らして来たわけでもありません。戦乱の時代 無住になった時期
もあります。現在の島に暮す人達の先祖は、合田氏は四国の伊予もしくは讃岐、三好氏は畿内 大川
市太郎 京都宮方に寄り・・・伊吹島に移すと島の三好系図に書かれたことばが気になります。門外漢
の私が推測するのも危険なことかもしれませんが、三好氏との関係があったのではと思いますが、本
当はどうなんでしょうか。ご存知の方教えて下さい。



H 西の堂の弘法大師像 三好 一義
遠い昔の島の人達は信仰心が厚く弘法大師(お大師さん)に特別な親しみを感じていたので、島の
娘達は、「四国遍路しないと嫁には行かぬ。」また、娘を持つ親達は、「お四国にやらなあの。」と四国
八十八ケ所巡りには、必ず出かけさせた。娘時代にお四国に行かれなかった人は結婚後、娘遍路と
一緒に四国八十八ケ所巡りに行くほどお大師さん信仰は盛んであった。
私は母より娘時代十八歳の時に行った当時のいろいろな事や弘法大師の話を何度も聞き、お大師さ
んはすばらしい人だと、子供時代より尊敬しておりましたので、神仏を信じ手を合わせて拝むことに、
抵抗を感じませんでした。
古い昔より、親、子、孫と長期間続いておりました、娘遍路も太平洋戦争が、始まった翌年、昭和17
年春より取り止めになったようです。西の堂に入ると正面にある弘法大師像を奉納した経緯について
書いてみます。
昔の四国遍路は歩いて阿波、土佐、伊予、讃岐 八十八ケ所巡りでしたので40日ほどかかったそう
です。
昭和16年春。百手祭りが終了した旧2月吉日 最後の娘遍路が出立しました。
先達は伊瀬梅吉、吉川益雄 25才、三好 キヌエ22才、溝口アサノ21才、川端タエ子20才、大川ト
シ子20才、河野ダイ20才、久保タネ子20才、馬渕ハルエ19才、平井ハナ19才以上男2名女8名
の10名。
順路は68番神恵院、69番観音寺と讃岐の札所を88番大窪寺まで打ち終え阿波の1番霊山寺へと
進む、このしきたりは、遠い昔より娘遍路の四国巡拝の順路だったようです。
娘遍路さん達が巡礼の道中で お接待にもらった金が65円貯まったので皆で相談して、何か記念に
残るものを西の堂に奉納しようと話し合った結果、お大師さん像を購入することに決まったので、阿波
10番切幡寺お詣りの時、境内の仏具販売店の店内に、大、小のお大師さんが並んでいる中より皆で
選んで、大きい方のお大師さん像を購入したそうです。
60年前 物価が安かった時代でしたので現在では考えられないような値段で購入できたようです。不
足分は皆で出し合ったそうですが、はっきりした値段は忘れたようです。
心暖まる有り難い話です。今年で60年。毎年旧3月21日、旧6月15日 2回 お大師さんの日には御
開帳しております。娘遍路最後に巡拝した娘さん達も80才近くになりました。変わらないのはお大師
さん。60年前も現在も変わらぬお姿で私達を見守ってくれています。ありがたいことです。当時はお大
師さん信仰が盛んでしたのでおばさん達がお参りに来て、ご詠歌をながして賑やかでした。

平成13年に書かれた伊吹島の最後の娘遍路に行かれた人達の話です。西の堂に奉納された弘法
大師座像の経緯がわかります。江戸時代より四国遍路に出かけた島の人達の様子が伝わってきま
す。百手祭りが終わった頃より出発しています。40日間の島から出ての徒歩での苦しい体験、新しい
発見、見聞は、その後、島に帰島してからの生活にも生かされたと思います。西の堂の内部には、四
国巡礼を終えた人達が奉納された写真等がたくさんあります。同行二人、お接待。 四国各地に伝わ
る素朴な旅の僧へのもてなしの心が、小さな伊吹島にも伝わっています。娘遍路の奉納した弘法大
師座像島四国(旧3月21日 平成16年は5月9日)には見ることができます。三好 一義さんには、
次回 島四国についても発表していただきます。ありがとうございました。



G 伊吹島の地名 三好 兼光
伊吹島に残る古文書の中にも地名が入っているものがありますので紹介します。

(1) 讃州豊田郡伊吹嶋古跡由緒記

天正五年長曽我部元親戦布 阿波讃岐略ス 三好保存防戦共不在利 而立退具 小豆嶋移利 合
田応芳戦 其ヨリ伊吹嶋至利 主従共居住定ム 大川先来ス 三好開発ス其時浦名附多利

面浦 芦谷 割岩(蛭子神社) 洲花 唐笠(名石有利) 仲花 亀石(海在利) 黒崎 大園石 大浦
棒添石 合戸穴 岩窪 端不動 猿尾嶽 黒岩 不動タケ 金輪 不動 烏帽子岩 道津加 御タケ 赤
岩 和田久保 西浦 天満石 前髪石 赤崎 畳岩 丸亀 俣枝□者本□伊吹嶋属ス 以下省略

三好 栄治氏所有の系図より抜粋 天正五年(1577年)


(2) 文化五年辰七月御巡廻御改メ伊吹嶋

大浦杭木前通リ波打際ヨリ洲端迄八丁 洲端杭木ヨリ真浦道杭木迄七丁半 真浦杭木ヨリ西浦杭木
マデ四丁 西浦杭木ヨリ和田ノ窪杭木迄五丁 和田ノ窪杭木ヨリ不動岩穴マデ五丁半 不動岩穴ヨリ
ゴウド穴口迄七丁半 穴口ヨリ大浦杭木下波打際迄四丁八間 総数合島廻り四十一丁三十八間也

洲端ノ上ヨリ人家入口迄二丁三十八間 三本松ヨリ同処マデ三丁 人家入口杭木ヨリ鉄砲石迄道筋
十一丁八間 鉄砲石ヨリ不動ノ上マデ一丁十二間 島長〆十四丁五十八間ナリ・・・・・以下省略 伊
吹島川端家文書 文化五年(1808年)


この他 伊吹島の文書ではありませんが、文化5年(1808年)9月10日の伊能忠敬の測量日記に
も 丸亀領伊吹嶋持大股嶋、円上嶋へ渡海し測量したことが書かれています。波が高く円上嶋を残し
伊吹嶋に引帰止宿 真言宗泉蔵院仮亭主弥三八。11日は伊吹嶋周囲を測量している。伊能忠敬は
和田浜に逗留しており 伊吹島には、渡海してません。伊能忠敬のお世話に上高瀬村大庄屋三好四
郎兵衛が当たっています。
現在の伊吹島の小字名は次の通りです。
真浦上 西佃 宮ノ西 宮ノ前 芦ノ谷 南向山 中向山 三本松 北向山 多中ノ元 大畑 北浦 苔
ケ峰 西ノ内 下滝宮 上滝宮です。
股島の小字名は南目 前目 があります。
この中で 多中の元という名がよくわかりません。ご存知の方、教えてください。
伊吹島の地名の中で 先人達は 海岸線にある岩にたくさんの名前を付けています。現在では海岸線
が埋め立てられ それらの石が見えなくなって忘れられてしまっています。昔の人は地引網とかダス突
きとかで、今以上に磯 と深いつながりの中で生活していたことがわかります。
今は鰯を獲るにしても 底曵き網も海岸線から遠ざかり、磯の大石とあまり関係ない生活なので 岩の
名前も忘れられています。地名からいろいろ考えるのも面白いです。現在の伊吹島の小字名は岩田
和社さんに教えていただきました。



F 伊吹島 漁業の変遷 三好 兼光
古文書の中にある伊吹島の漁業(近世)を抜書きしてみました。豊かな海であったことがわかります。

・白旗網を始める
三好 義兼三男 三郎兵衛門尉(400年前)伊吹島において漁労網を始む 白旗網という。白旗網がど
ういう網かはっきりしていません。 伊吹島三好系図
・讃岐魚島鯛
江戸時代 正保2年(1645年)『毛吹草』の中に備後田島と共に讃岐魚島鯛がタイの産地として書か
れている。
・八統の村君
延宝3年(1675年)八統の村君(8軒の網元)と網子の寄進 伊吹八幡神社再興 本願主 八條網中
伊吹 川端家文書
・下津井の出買船
元禄2年(1689年)2件 元禄3年(1690年)1件 伊吹島に魚の買付に来ている。 願書上 一 今度
私共船ニ而讃州之内伊吹島ヘ魚買ニ参、則大坂ヘ売ニ参申度御座候、願之通被遣被下候ハ、忝可
奉存候・・・ 岡山 荻野家文書
・煎海鼠(きんこ)
寛政11年(1797年)煎海鼠50斤(30キロ)幕命により請負う 中国清への輸出品 庄内浦 仁尾浦
姫浜浦 箕浦 伊吹島 仮屋浦 和田浜浦 詫間浦 三豊郡誌
・蛸買付
文久2年(1862年)岡山 和気郡難田村庄兵衛船直船頭、水主二人乗、正月二十六日村方出帆、讃
州伊吹島ニ蛸買入・・・岡山 池田文庫



E 伊吹八幡神社の武者絵馬 三好 一義
伊吹八幡神社にはすばらしい絵馬(武者絵)があります。拝殿に入ると正面に大きな額が掛かってい
るのがそうです。絵もきれいで、ところどころ色が取れている所がありますが、新しそうなので、明治時
代の作品かと思っておりました。
私が宮総代になった、平成元年に、拝殿のお屋根葺替えの時、額を外して外に出しましたところ、額
の裏側がホコリが厚くたまっているので、ホコリをホウキで取り掃いましたところ、文字が現れましたの
で、よく見ると墨書きで、元禄十一年寅八月 施主 三好 市郎太夫正義とあり、「白旗網中」と書かれ、
姓がある人の名前二人と名前だけの人が二段にずらりと書き入れてあるので、驚きました。映画、芝
居で名高い赤穂浪士の討ち入りが元禄十五年(1702年)十二月ですから、三百年前の立派な絵馬
です。
この絵馬は、三好 義兼主従八十騎が伊吹島に来た時、岩屋の八幡林から駆け登った時の様子を書
いたものと島の古老より聞いています。目の玉が書き入れてないのが、どうしてかわからず、不思議
です。でも、武者はいきいきとしています。
武者絵師の澤野兵八筆 雅号印は重信となっております。
拝殿お屋根葺替え記念に絵馬の模写を部分的に写真にとり、ケント紙全紙に描き、平成元年十月
奉納 社務所座敷にかけています。

私の母と同級生の絵の上手なおじさんです。島四国 お大師さんのことなどにも詳しいです。資料館の
絵もたくさん描かれています。島四国の時、再度登場していただきます。ありがとうございました。



D 漁業の話 三好 了太郎
出月三合満ち 入り半(なか)ら
9日10日の明暮(あけく)れ湛(たた)え
5日20日の朝残り

これは、伊吹島を中心とする燧灘(ひうちなだ)の旧暦で見た潮の干満と、その流れを知るために伝え
られた中の一部です。月の出た時3分程潮が満ちており、月の入る頃には半分位ひき、9日10日は
朝夕が満潮、5日と20日は朝ひく潮が残っているとの意です。漁師仲間では潮の干満を何合というい
わゆる3合満、5合満、8合満といい、満潮を湛えというからです。

表(おもて)三合せ艫(とも)四合せ櫓がい五と五と中二あり

賽ころを2つ並べて船の中央の梁に埋め込みます。これは、木船時代独立した船の神様の象徴で、
独立しない小船にはありません。表とは舳先のことで舳を見合せよの意、艫仕合せは、櫓がいと両舷
側に櫓を備えつけてあるから、その櫓が絶えずごとごと働くようにとの意です。中荷ありとは、絶えず
積荷があると同時に漁師と船で事業をする人は、資金の事を仲荷と言ったので常に仲荷金があるよう
にの意です。これを、船魂様といって尊び、木船であるが故に船の底にこけやかきがついたのを落とす
ために焼いたもので、これは船足を軽くする行事で、また儀式でもあります。漁師はこれを船たでと言
い、船たでの時は船魂様を岸辺に上げて、船魂様を積んだまま船たではせず、すんだ時はお坊さんか
神主にお祓いをして頂き、船員はご馳走になる習慣になっていました。

月の満刻播磨に潮なし港に潮あり

これは帆と櫓で伊吹島周辺でとれた鯛や鯵(あじ)を上り船(のぼりぶね)と称する船に、生きたまま
阪神へ運ぶ時潮流干満等に使われた一節であり、月が中天にある時は播磨灘の潮流は西へも東へ
も動かないが、港は満潮であるとのことです。

『語りつぎたい讃岐老人の知恵』 昭和59年発行 香川県老人クラブ連合会編より

伊吹島に残る漁業に関する諺や言い伝えです。先人達から教わったものを書き残してくれてます。島
に残るたくさんの諺言いまわしをこれからの人にも継承して行ってほしいです。故人となられましたが、
書かれたものが未整理と聞きました。新しい発見がありましたら教えて下さい。ありがとうございまし
た。



C イリコ いま、昔 伊瀬豊四郎
昭和30年頃までは、キレイなおいしいイリコが取れていました。まして、9月のイリコは一年中色も変
わらず、よい煮干しいわしでした。終戦後、化学の発展の半面 田や畑には化学肥料を用い、人糞や
工場の廃液は海にタレ流し、海水は汚染されてしまいました。そのため、いわしに油がつき煮干しい
わしにするいわしが少なくなり、一時はどうなるかと心配しました。
2,3年前から、各官庁の指導や対策により、海もきれいになりつつありますが、戦前の海には戻って
いません。
昔のイリコは、800匁入りの紙袋でしたが、近年は8s入りのダンボール箱ですので、ビニールの小
袋に小分けして冷蔵庫に入れておくと、3,4カ月は味も変わりません。できれば、冷凍庫に入れると
半永久的に色も味も変わらず、おいしく食べられます。

『語りつぎたい讃岐老人の知恵』昭和59年発行 香川県老人クラブ連合会編より

イリコの加工の変遷がわかります。一時期 海水が汚染され 加工できない時期を経験されています。
いつまでも美しく 魚族の多い瀬戸内海であってほしいです。伊瀬さんは亡くなられましたが、生前いろ
いろ漁のこと島の暮らし等教えていただきました。



B 産院の思い出 久保カズ子
目の手術の経過が悪く盲目となり足も悪くなっている老婆の所へ、週二回訪問していた。若き日の産
院での思い出話に花が咲くのも度々のこと。
昔は産院のことを出部屋(でーびや))と呼んでいた。出部屋終(じま)いの前日は盥を洗い身を浄め
に浜に行っていたと話される。明日は出部屋終いだと二人連れで細い山道を下り北浦港の古波止の
外側の浜へ、どちらから言い出したか知らぬ間に海に入り、何もかも忘れ楽しく泳いでいた。波止の上
から「出部屋の者じゃろ、はよ上がれ」男の声に驚き、帰れと言われて気がつき、帰り道のしんどかっ
たの、腹が減って盥が重く、くたくただった。あの時は若かったので泳げたもんじゃ、と話されていた。
伊吹は約400年前、長七という人が私財を投じて北浦の高台に産婦のための小屋を建てたのが出
部屋のはじまりといわれる。土間に筵を敷いた粗末なものであった様子。明治初年の改築後もやはり
土間に筵敷であったとのこと。昭和5年に改築した。その頃であったと思う。主人を時化(しけ)で亡くし
た老婆の話では、出部屋の石垣を築き上げるのに石一ついくらかの賃金で浜から背負って上げ、人
が2回上げるのに3回以上上げ、2人の子供を育てるのに必死だったと大変な苦労話をされていた。
昭和31年増築 診察室、分娩室 が完備された。
私は昭和31年3月朝から産院へ行き夕方の満潮に女子誕生。出産1ケ月前には、出部屋行きの荷
物はきちんと整えていた。生まれても、声がない。叔母がもう死んでいるようだと言う。助産婦さんは必
死に両足を持ち上げ逆さにして頬をぽんぽんたたいている。私は何とも言いようのないすごく長い時を
感じた。逆子だった。半時間程してやっと泣き出した。叔母が、泣いたぞ泣いたぞと喜んでいる。「有難
う」のお礼を何回言ったろうか。
高台の向いの段々畑には麦が青々と隙間なく列を正し、燧灘から吹き上げる風に左右され、沖は夜
明けと共に眼下の北浦港を出港する漁船の音に始り、帰港の漁船に鴎が群れ、一日が終わる。映画
のある日は背中に映画のビラ、前には太鼓。今の拡声器がわりだ。この高台から今夜の映画の宣伝
もする。のんびりした生活。
次女出産は、32年5月。「明日から麦刈りだ。」姑の声、一回目のお産が余り長かったので、我慢に
我慢をしていた。その朝分娩室へ入り、10分程で生まれ、やれやれだ。一ヶ月の産院生活が終わっ
て帰ると、麦刈りも芋植も終わり頃だった。産院での食事は米の飯でした。
主人は艀(はしけ)に乗っていたので、二人の子供を連れ船での生活。この時は悪阻(つわり)が一
番酷かった。二人の子供は真似をしたりしていた。大阪から観音寺通いの船で二人の子供を連れ帰
る。
三女はお産が軽く、納戸で産婆さんが来るまでに、夕方六時電気がつき、十一時には消えるので、ラ
ンプを頼りのお産だった。夜が明けると産院に行った。男子禁制と言っても昔程でもなく、父は一週間
の間に古血をおろせと、どの子の時も生きの良いちぬ(黒鯛)を持って来てくれていた。婦人倶楽部の
撮影の方が見えられ、写真のモデルになる。婦人倶楽部5月号に、「島の産院」と題して健康な島の
女性たちは、よほどの事がない限り出産の翌日から、おむつの洗濯、炊事は自分でやる。気持ちのよ
い場所で、誰に強制されるでもなく、のんきにできる洗濯等はかえって体力回復に役立つ適度な運動
になるだろうと紹介された。この本が私の宝物の一つとなっている。
子宝に恵まれ、40年11月4人目に長男出産。大きな御腹(おなか)で芋掘りはしんどい。畑から帰っ
て身動きがとれず寝ていると「姉ちゃん、夕御飯食べた」ほしくないので食べてない私に、妹と叔母
が、米のごはんに好きな卵焼きを持って来てくれた。その夜産気づいた。「産婆が間に合わん。もう座
敷で産め」姑の声。三人の娘に布団を持って二階へ上がれと。産婆が来るのと同時に元気のよい産
声が上がる。「小便とばした、男の子だ」三人娘は二階の畳に耳をすりつけて聞いていたとか。夜が明
けると列を作って産院へ、やっぱり産んでよかった。妹達の持って来てくれた食事のお陰で力がつき
有り難かった。
誕生後三日のヒアワセと言って、新生児が男の場合は女の子の母親をよび、女児の時は男の子の
母親をよんで馳走を共に食する。同性の者を呼ばないのは、お互い、「カタマケ」しないようにとの気持
ちの現われらしい。縁あって出部屋生活を共にした親と子は出部屋友達として終生の交わりがはじま
る。
七日は名付祝で、命名の儀が終わると姑さんが名前を書いた紙と御酒を持参し出部屋の人達を皆呼
んで御馳走をしお祝いをする。約一ケ月の養生、その間針仕事等も教えられたり教えたり、薪、水、米
麦などの心配もなく、親戚、知人がいろいろと出部屋へ物を持って来てくれる。天下泰平な時が流れ
る。電燈もなく小燈(ことぼし)を頼りの生活、夜が明けると、小燈のすすで赤子も親も鼻が黒ずんでい
る時が多く、小燈のホヤを掃除するのも大切な仕事だった。長男が産まれた頃は、朝まで電気がつく
ようになっていたと思う。
出部屋終い(退院)私達の時代には浜へ行かず、塩で身と盥を浄め、産院で履いた草履等は置いて
帰る。姑さんがきれいな振袖(カブセ着物)を持って迎えに来る。不浄の初毛を剃ってもらった赤ちゃん
を抱き、「名前を言って家へ帰るんぜ」とカブセ着物をかけ包丁を持ち、皆に別れを言って先頭に立つ。
親戚、友人、近所の人達が荷物を運びに来てくれ、本人が最後に盥を持ち、列を作って帰宅する。そ
の日、出産祝い(出部屋に物を持って来てくれたすべての人)を受けた人、産婆さんを招待するのが出
部屋飯(デービヤメシ)一日賑やかに元気な帰宅を喜び、振舞った。
全国でもおそらく最後に残ったと思われていた島の出部屋も、次第に海を渡り産婦人科で分娩するよ
うになり、昭和四十五年四月の出部終いが最後となったのも、時代の流れであろうか。

高瀬町の森田 泉さんを中心に活動している文芸好きの女性だけの文芸誌『遊なぎ』に伊吹島在住の
久保 カズ子さんが書かれた文章を抜粋しました。
父 秋光の文章 久保先生の文章 はいずれも男性の書いたものです。出部屋にはやはり、女性の文
章が必要です。快諾ありがとうございました。



A 伊吹産院(通称出部屋)跡 久保@治郎(くぼ せんじろう)
古事記・日本書紀の神話にはじまり、古代社会では血を見ることを死と同様に忌み、月経や出産を
「赤不浄」と呼び、「家の火が穢れる」と考え別棟の小屋を造り、そこへ当人だけが行って泊り、別火生
をした。古くは村共有の小屋を持ち、西南日本の海岸地帯に伝承されたが、県内でも高見、佐柳、
広島、志々島にあったそうである。職業柄、特にこのことが厳重に考えられていた伊吹では、約400
年前、長七という人が、私財を投じて荒涼とした高台に産婦のための掘建小屋を建てた。出部屋(で
ーびゃ)のはじまりといわれ、土間に筵を敷いた粗末なものであったらしい。
明治初年の改築後もやはり土間に筵敷きで、四畳半の部屋が三間(みま)建物二棟から成り、各部
屋ごとにかまどがあったといわれる。
恩賜財団慶福会(皇室・宮様が総裁)助成金一千円也(当時米1石25円60銭)を基金として、昭和
5年に改築され、日当たりのよい六畳五間の左側棟が竣工する。更に31年には右側の棟が増改築さ
れて診療室、分娩室が完備し、炊事場、洗濯場、食堂があるというように近代化し「伊吹産院」と彫ら
れた石の門柱が示すように、すっかり模様替えされた。なお昭和8年にも高松の宮様から御下賜金を
受けている。
出部屋入り(入院)は家での出産後になる。クマウジの日を避けるが、出産直後の翌日になっていた
ようである。産婦自身が新生児を抱いて、魔除けのために刃物を持ち添えて先頭に立ち坂道をも越え
て出部屋に向かう。近親、友人の女達がそれぞれ当分の間の生活用品を持って後に続く。最後には
姉妹あるいは母親などが汚れ物の包みを入れた盥(たらい)を持参する。産婦が衰弱している場合は
濃い身内の誰かが代って子供を抱いて行ったようである。(男子禁制、31年の増改築後、出部屋で
分娩する者が次第に多くなった。)
誕生後三日目には「三日のヒアワセ」といって、新生児が男の場合は女の子の母親を呼んで馳走共
食する。同性の者を呼ばないのは、お互いにカタマケしないようにとの気持ちの現われらしい。ヒアワ
セは火合わせであって、これから出部屋生活を共にする合火(あいび)の意味を持つものと思われる。
事実このように縁あって出部屋生活を共にした母と子は、それぞれに「出部屋友達」として終生のまじ
わりがはじまるのである。
本来が「穢れを避けて身を慎む事」を起源とする出部屋であり、昔は入院中に出来上がった着物の枚
数によって、嫁の腕の善し悪しが批判されたが、むしろ「出部屋友達」として、一生親類付合いをする
仲間と共に、約1ケ月を過ごす。ここでの生活は、昔と全く違い、気楽に産着を縫ったり、雑談したり力
のいる水汲み等は古い人がしてあげるというように世話をしたりされたりしながら、家での雑用から完
全に開放されのどかな日々を送るのである。これは何かと忙しい漁村の家にいてはとうてい考えられ
ない別天地であったといえる。
出部屋じまい(退院)。その前日、昔は寒中といえども北浦港の海水で全身を浄め、出部屋で使用し
た盥、桶等も洗い浄め、はいた草履等も置いて帰ったそうである。この慣行は次第に簡素化され、出
部屋を出る時塩を撒くとか頭にいただくくらいですませるようになった。
全国でもおそらく最後に残ったと思われる出部屋も次第に産婦人科医院で分娩するようになり、昭和
45年4月の出部屋じまいが、事実上四百年の永い歴史を持ち、人々に親しまれて来た伊吹産院の
出部屋じまいになったといえる。県道敷設の関係ということで解体されたことはおしまれるが、幸い設
計図が残されている。

(伊吹歴史民俗資料館だより 第13号 ふるさと散歩より抜粋 平成11年4月)
伊吹歴史民俗資料館の産みの親 久保@治郎先生にお会いし出部屋を書いたものをHPに載せたい
のですがと言うと快諾していただきました。
残念ながら、先生は平成14年1月23日 お亡くなりになりました。最後まで島のことを気にかけ、88
才 亡くなる直前まで伊吹島のことばをはじめ多くの島の歴史民俗を調査されました。「すばらしい島だ
よ。伊吹島は。」先生のことばが聞こえてきます。いろいろな時代の困難を乗越えてきた先人を研究し
てきた先生のこれからの人に託すメッセージです。先人に負けない生き方をしたいものです。
伊吹産院跡の文章にも先生のメッセージが込められています。最後の1行です。「幸い設計図が残さ
れている。」 いつか、再建してくれよ。とおっしゃっている気がします。

お詫び 久保先生の名前が難し過ぎてJISコードになく表示できません。
くぼ せんじろうせんという字は人偏に西を書いて下に舛(ます)と書く漢字です。



@ 我が ふるさと 伊吹島のことども 三好 辰治
古い讃岐地理の教科書に『伊吹島は、観音寺を去る西三里の海中に在り。島内飲料水に乏しく風
俗・言語他と異なる所あり』と書かれてあった。全くこの通りである。この伊吹島が私の忘れることので
きない生まれ故郷である。愛郷心を拡大すれば、愛国心となる。人は何故、故郷をなつかしみこれを
慕うか。父母あり、先祖の墳墓の地であるか故か。否々、土、水、風というものであろう。孔子もまた
『還らんかな』と言い、人は郷土の為に死す。『胡馬は北風に嘶き、越鳥は南枝に巣くう』宣なるかな。
今、伊吹島のことどもを語るにあたり、私もまた思い万丈である。
(1)島の名称
瀬戸内海のほぼ中央で波も静かな燧灘、気候温和にして自然の養魚区域の真ん中に浮かぶ 七とこ
三里のこの島は、周囲約四十五丁、海抜百二十米、戸数八百弱、人口五千になんなんとする。伊吹
島の伊吹という名称はどこから出たものであろうか。
かの十巻弘化録に、今は昔、夜な夜な観音寺より西の海面に不思議な光を放つので仮屋の漁師達
が恐れて漁に出なくなってしまった。そこで弘法大師が小船をやってその付近をお調べになると一本
の丸太が波のまにまに漂っていて不思議な光はその丸太から発していたことがわかった。そこで『こ
れは珍しい木である』と言われ、この木を島に引き上げてそれで瑠璃光如来、即ち薬師像を造られた
のである。爾来この島の名を『異木島』と言うようになったと言われている。
また、三好家の系図などには、井に富み貴き島、『井富貴嶋』と書いてあり、西浦の海中より吹き出
す泡から『気噴き島』と言い、また、富みのいぶきの意味から『井吹き島』と言う説もある。とにかく、
『伊吹』とは良い名である。地相も『花の伊吹、巽下がり、乾上がりの宝島』と歌われる程、易学的に
みて幸福繁盛の島である。因みに弘法大師は観音寺の神恵院の七代目の住職であり、『異木島』と
名づけられたのは約千二百年前と推測出来るのである。

2)住民
この島にいつ頃から人が住んでいたかと言えば、おそらく千数百年前より若干の人間が漂流のた
め、または不逞の徒が隠れ場所として住んでいたものと思われる。(岩屋、合戸ノ穴の地名がある)
また、菅原道真公が国守として巡察せられた時、琴弾山よりこの島を望まれたという。一説にはこの
島へ渡って来られたとして島の中心部に『菅公腰掛けの石』なるものがあり、現在その地には天神の
お社があって人々の崇敬するところとなっている。
これより少し後に藤原純友が伊予に在って、関東の将門に相呼応して謀叛を起こし、そのため、この
海域一帯が戦場となったこともある。これらの事からみても、この島には、かなり以前から人が住んで
いたことが察せられる。むろんこの頃の伊吹島は樹木鬱蒼として茂り、禽獣虫魚の極楽境であったこ
とと思われる。
これより世は源平の争い、更に南北朝時代、戦国時代と変転し、時を得ぬ者、世を忍ぶ人々、転覆
を計り再起を望む輩は多く山に入り海に浮かび、浦々島々に隠れて謀略をめぐらし勢力の蓄積にこれ
努めた。その結果、強盗海賊の所為にまで転落し弱肉強食の一大修羅場となったであろう。合田氏
の渡海、三好氏の密航も共に室町幕府の末、織田・豊臣の新興の前後であったのである。

(3)八幡宮と泉蔵院
今から約三百七十年前に、三好氏がこの島の北浦から一族八十余騎で来たり、上がるや先取特権
を主張する合田氏との間に争いを生じ遂に攻防掃滅戦が何年か続き、秀吉の刀狩り、家康の来島又
兵衛採用となって内海の海賊の勢力はついえ、専ら漁師または海商となって発展の方向が変わる
や、この伊吹もとみに平和共存の社会が現出するに至り、鎮守の神として八幡大菩薩が後世安楽の
ために泉蔵院が移転され島民その土に安んずることとなってきた。
八幡宮の鎮座は約三百年か。御輿倉の建てられたのは寛文十三年というから二百八十七年前で泉
蔵院も開山は大治二年であるが島に移されたのはやはりこの頃と思われる。元来観音寺神恵院の下
(寺下七坊あり目下泉蔵院と惣持院二ケ寺なり)にあったものである。
世は徳川時代となって京極氏が西讃で六万石に封じられるやこの島も百五十石の領地となり、三
好・合田もその領民ということになった。爾来三百年間、時に微風無きにあらざれども一島あげて一家
のごとく婚姻も主として島内ですませ、為に近親結婚の幣を生じたが、一方 呉越一系の血流脈々とし
て絶えず、老を敬し幼きを愛し 尊卑無差別に近親感をもって安居楽行するに至ったのである。
この三百年に起こった出来事の主なるものと言えば、三好源兵衛の失脚、島民の一揆、恩美新六の
死刑などである。
一 、 三好 源兵衛の失脚 三好 源兵衛茂啓は幼名を嘉左衛門ノ太郎と言い利発聡明な少年であ
った。江戸に出て島原公の小姓となり、遂には勘定奉行にまで出世したが、あることから讒に合い帰
島して鯛網を始めたとの記録が残っている。その辞世の歌に『今ぞ知る 六十路の坂に 雲晴れて闇路
闇夜を照らしてぞ行く』とあるがその時代は約二百年前であろう。尚、島から出て活躍した人に大倉信
三、赤壁ノ甚七という人がいた。
二、島の一揆 これは庄屋土居仁右衛門を相手どって、おもやの勘兵衛、新宅の沐衛門、清左の清
衛門等が丸亀藩主に強訴した事件である。
三、 恩美新六の死刑 恩美新六は三好家の人であるが、三十石船の船頭一同に替わって刑を受け
たとか聞く。
以上の他、島の良風美俗及び陋習ともみるべき事柄は、烏帽子子(えぼしご)、筆娘、オセチ配り等
は良い方で、女子のタバコ三巾前掛けは改めるべき悪習である。島の言語、風俗は阿波池田付近に
おける略奪結婚と共に移り来たり、これに伊予・讃岐及び中国地方の海浜島々の風習が影響して今
日のような姿となったのであろう。島に伝わる盆踊りの歌を記してこの項を終わりとする。
『盆が来たりゃこそ 粟に米まぜて あいに ささぎがちらちらと』

明治三十一年生まれ 北屋本家のお祖父さんの昭和三十年頃の記述





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