年が明け寒梅が咲き、紅白の梅の蕾がふくらみ始める頃、テレビ、新聞紙上に花を添えるのは恒例
の
「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の話題。
天保期からの優美な姿を琴平象頭山のふもとに現し最古の歌舞伎劇場「旧金毘羅大芝居」(通称
金
丸座)のこけら落としは昭和60年4月27日。毎年 春琴平の町は「お練り」があり、昔ながらの劇場で
歌舞伎歌が行なわれ、たくさんの人で賑わう。 大芝居 幟の上の 春鴉 カズ子
金丸座を見学する。見るものすべてが別世界「わあ、立派な歌舞伎の劇場だなあ」と思いつつ、次々
見て廻り最後に花道の下へ降りてゆく。回転を円滑にするよう木製の台車があり、奈落で人力で廻す
機構になっている。「ロクロ」その木のぬくみを手にした時、私は少女時代友人と入った伊吹の
「日の
出館」を思い出していた。金丸座と同じような仕掛の「ロクロ」、少し小形だが伊吹島にもあったのを懐
かしく、昨日のように思い浮かんでくる。花道の下は暗く両側は石積、とんとんと敷板を渡り奥へ入る
と「ロクロ」があり「これを廻せば舞台が廻るんだよ」友は親戚が興業関係者なので、
「日の出館」のこ
とは知り尽くしていた。「廻そ、まわそう」と何人かで廻した「ロクロ」のぬくみは忘れられない。
「大正七年一月起 会場建設費収支明細簿伊吹青年会」という資料がある。
島の青年層が発起し、浄
財を募り、夜なべで草履を作り、
松葉事業の一部を繰り入れ一致団結して完成したことが書かれてい
る。瀬戸内海の小島に立派な劇場(島唯一の集会場、常小屋、青年クラブ、日の出館)を作った先人
に頭が下がる。
芝居、浪曲はもとより映画も上映された。戦後は島に映画館が2軒建った。島は活気
に満ち、鰯もよく獲れ、島外の若衆も網子として大勢働きにきていた。テレビが一般家庭に普及するに
つれて、島民も京阪神、大分へと移住していった。時代の波に逆らえず、テレビの時代となってゆく。
「日の出館」跡地に公民館が建設されたのは、昭和41年だった。
大正7年完成、その後の使用明細書、建築設計図を残すのみとなった「日の出館」主人曰く。愛媛県
内子の芝居小屋「内子座」より伊吹「日の出館」の廻り舞台装置、花道、潜り等は大きかった。
伊吹島にあった「日の出館」について書かれた文章です。娯楽の少ない島にとって「日の出館」の果
たした役割は大きいものがあります。宮の広庭で小屋掛けしていた興業も雨の心配もない、大きな会
場で見ることができるようになりました。年寄りは「常小屋」と「日の出館」を呼んでいました。会場建設
に島の若者が積極的に関わっています。松葉事業という耳慣れないことばが出てきましたが、魚が寄
ってくるように植林をして、毎年 落ち葉を集め、枝うちをして売却してその一部を会場建設にしていま
す。「日の出館」建設に全島民が協力しています。青年の熱い思いが時代を切り開いて行ってます。
琴平町のHPより金毘羅大芝居を紹介します。
http://www.town.kotohira.kagawa.jp/kabuki/index_f.
html